山路村(読み)やまじむら

日本歴史地名大系 「山路村」の解説

山路村
やまじむら

[現在地名]能登川町山路

はやし村の西方にあり、南東は伊庭いば村。西部の湖岸近くには一ノ坪から三六ノ坪までの数詞坪地名を含め古代の条里遺構を残していたが現在は消滅。神崎郡八条一〇里にほぼ相当する。城・屋敷ノ内の小字名を残す一帯は山路城とよぶ中世の城館跡にかかわるとみられ、「大洞弁天当国古城主名札」は山路平兵衛を城主とする。文禄の役では当村も徴発を受けたらしく、天正二〇年(一五九二)一月二四日には「山路村家数高七拾五間此内七人加子之高」として唐へ派遣する加子一人の出役を命じられ、二月一一日付の文書では同月二五日以前に加子衆が大津に到着するよう指示されている(芦浦観音寺文書)。慶長期(一五九六―一六一五)という佐和山城付舟帳(同文書)には五艘とあり、当時すでに湊としての機能があったことがわかる。のちには彦根三湊の一つ松原まつばら(現彦根市)の出湊として位置づけられ、慶応二年(一八六六)には同湊の船年寄と当村の庄屋・年寄・百姓代が、山路湊は出湊であること、旱魃の際は田地用水を堰止めてでも舟運に支障をきたさぬこと、一方山路側も従来どおり丸子船を運用できること、荷揚げの際は田畑を荒さぬよう水夫に申付けることなどを取決めている(神崎郡志稿)


山路村
やまじむら

[現在地名]大屋町山路

大屋市場おおやいちば村の北西、大屋川の右岸にある。集落は大屋道の本道にあたる西谷にしたに道に沿い、大屋市場村の集落に続いて展開。近世の領主の変遷は大屋市場村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では大屋庄高九八七石余のうちに含まれて高付されていたと思われる。出石封内明細帳によると拝領高五九石余・改出高四石余、これらの内訳は屋敷三石余・麻畑三斗余・田方四二石余・畑方一七石余、ほかに古新発高六石余、小物成として茶代米一石八斗余を上納、これは高当りで換算した養父郡出石藩領諸村平均の約三倍である。


山路村
やまじむら

[現在地名]久住町栢木かやぎ 山路

古市ふるいち八山はちやま両村の東に位置。肥後街道が通る。正保郷帳に村名がみえ、朽網くたみ郷に属し、田高七石余・畑高一六石余。弘化物成帳では栢木組のうち、村位は下、免三ツ二分、田一一石余(一町三反余)・畑四七石余(一〇町四反余)、屋敷一石余(一反余)で、開田七斗余(三畝余)・開畑一〇石余(二〇町二反余)がある。旧高旧領取調帳では高八〇石余。当村には小庄屋が置かれた(安永七年大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


山路村
やまじむら

[現在地名]今治市山路

今治平野の西端に位置する南北に細長い村で、中央を幅約四メートルのあさ川が流れる。天保郷帳には村名はない。もと阿方あがた村と一村であったが、のちあがた矢田やた・山路の三村に分れ、明治四年(一八七一)三村が合して阿方村となり、同一三年再び分村して山路村に復した(伊予国野間郡地誌)。西は阿方村・矢田村、東は馬越うまごえ村・小泉こいずみ村・日吉ひよし村に接する。近くに弥生前期の阿方貝塚があり、当村にも同時期の住居跡が発見されている。


山路村
さんじむら

[現在地名]鴨島町山路

麻植塚おえづか村の南に位置し、東は上浦かみうら村、西は森藤もりとう村。村の北部は平地、南部は高越こうつ山系の山地となっている。地内には中世以来熊野先達の拠点であった仙光せんこう(十川山)や鎌倉時代初期の麻殖保司平康頼の建立と伝える玉林ぎよくりん寺などがある。慶長二年(一五九七)の分限帳では金松市郎右衛門の知行分のうちに山路村高三四六石余、同じく安楽寺九郎左衛門の知行分のうちに山路高七四石余がみえる。


山路村
ひやまじむら

[現在地名]耶馬渓町樋山路

樋桶ひおけ山より南東へ流れる樋山路川流域の山村。東は大久保おおくぼ村、南は宮園みやぞの村。小倉藩元和人畜改帳では高四〇〇石、家数六四(うち百姓一九・名子一三・牢人五)・人数一三八、牛一四・馬九とある。元禄豊前国高帳では高四一二石余で、ヒヤマジと読みを付している。慶応四年(一八六八)の本新田高四一七石余、反別三六町九反余・取二八四石余・無地高一二七石余、家数一二一・人数五二三(「幕府領下毛郡村々」矢野家文書)。真宗大谷派浄真じようしん寺は縁起によれば、奥州の浪人吉原右衛門尉が字杠葉ゆずりはに一寺を建立。


山路村
やまちむら

[現在地名]中村市山路

真崎さねざき村の西北、三原みはら(現幡多郡三原村)の山中より発する山路川が四万十しまんと川に合流するところ、四万十川右岸にあり、「土佐州郡志」は「中村之東、々西五十町南北十八町、戸凡一百、其地多砂石、経此村抵以南中村、奥山路・木戸、皆属本村」と記す。木戸きどは合流点下流の真崎に近い地域、奥山路おくやまちは山路川流域をいう。

天正一七年(一五八九)の幡多庄山路村地検帳によると、当時の山路村は「木戸之村」「山路村」「奥山路之村」の三村で構成されており、合せて検地面積一二一町五反余、屋敷数一一七うち居屋敷四七。


山路村
やまじむら

[現在地名]臼杵市高山たかやま 山路・越崎えつさき

掻懐かきだき村の南西、臼杵川の支流高山川の最上流域山間にある。西は高須たかず村。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高一八六石余、うち田方一三二石余・畑方五四石余、村位は中下。同一一年の惣御高頭御帳では仁王座村組(野村組とも傍記される)に属し、村役人に藤四郎を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では左津留村組に所属、のち掻懐組に属した(万用集)。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では本高一三五石余・出来高五一石余。


山路村
やまじむら

[現在地名]豊田市芳友ほうゆう

矢作川上流部に架かる富国橋の南東に位置し、東加茂郡足助あすけ町と接する辺りには山路池がある。中馬の通る飯田街道からやや北に入った山間の地。近世初頭は、幕府代官鳥山牛之助の支配であった。慶安四年(一六五一)大島おおしま陣屋(現東加茂郡足助町)の旗本石川備中守知行となり明治に至る。明治一八年(一八八五)の「愛知県西加茂郡各村沿革調」によれば、田七町八反余・畑三町五反余・山林二〇町六反余で、戸口は一二戸、四八人である。


山路村
やまじむら

[現在地名]郡家町山路

山田やまだ村の東に位置する。拝領高は二〇七石余。本免四ツ三分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」では高二二〇石、竈数一〇余。「因幡志」では家数一三、産土神は山神大明神。蓮徳れんとく寺がある。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二二八石余、竈数一四。佐藤氏の給地があった(給人所付帳)。藪役銀一匁余を課されていた(藩史)。草山が少なく山田村とともに花原はなばら村草山に入会っていたが、宝暦一三年(一七六三)この三村間に争論が起き、藩の裁許で毎年花原村に草手山米二斗を納めることになった(在方諸事控)


山路村
やまじむら

[現在地名]立田村山路

東は佐屋さや川を隔てて佐屋宿(現佐屋町)に、西は鵜戸うど川を境にして小茂井こもい村に接する。佐屋への渡場があることによって知られた村。「徇行記」によれば、概高八四五石余は一円蔵入地。田は三三町二反五畝余、畑は一六町六反三畝余。「寛文覚書」に戸数六九、人数三〇六とある。「徇行記」に「高ニ準シテハ農夫多他村ヲモ出作スルト也、古此村ヨリ佐屋村ヘ引移レル者アリシ故今ニ其田地ヲ承佃スルモアリ、先年ヨリ戸口増セリ、然レトモ卑湿ノ地ニテ立毛水ニ傷ハレ窮民多ク、魚鳥ヲトリ又ハ日傭カセキナトシテ渡世ヲ送ルトナリ」とあり、佐屋宿ヘ魚・鳥を売出し、人足稼の収入を得たことが知れる。


山路村
やまじむら

[現在地名]榛原町大字山路

伊那佐いなさ(別名山路岳)南麓、石田いしだ村・大貝おおがい村の間に立地。宇太水分神社古図に「山路」と記す。慶長郷帳の村高三二六・〇五石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android