平康頼(読み)タイラノヤスヨリ

デジタル大辞泉 「平康頼」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐やすより〔たひら‐〕【平康頼】

平安末期、後白河院近臣鹿ヶ谷ししがたにの議に参加し、俊寛らとともに鬼界ヶ島に流され、翌年許されて帰り、仏門に入った。法名、性照。著「宝物集」。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「平康頼」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐やすより【平康頼】

  1. 平安末期・鎌倉初期の武将検非違使となり平判官と称す。治承元年(一一七七藤原成親、俊寛らと鹿ケ谷会合を開き、後白河法皇を擁して、平家を滅ぼす計画を企てたが、事前にもれ、薩摩鬼界島(きかいがしま)に流された。翌年赦免され帰京説話集「宝物集」の編者。生没年不詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平康頼」の意味・わかりやすい解説

平康頼
たいらのやすより

生没年未詳。平安後期の武士。信濃権守(しなののごんのかみ)中原頼季の子。1174年(承安4)北面(ほくめん)の武士から検非違使尉(けびいしのじょう)となる。このため平判官(へいほうがん)康頼ともいわれる。今様(いまよう)の名手で後白河(ごしらかわ)院の寵臣(ちょうしん)。77年(治承1)鹿(しし)ヶ谷(たに)事件に連座して俊寛僧都(しゅんかんそうず)、藤原成経(なりつね)とともに鬼界(きかい)ヶ島へ流された。途中、周防(すおう)国(山口県)で出家して性照と号す。鬼界ヶ島における熊野権現(ごんげん)の勧請(かんじょう)、千本の卒都婆(そとば)流しなどの話は有名。78年大赦され、翌年に帰洛(きらく)。のち東山雙林(そうりん)寺に籠居(ろうきょ)して説話集『宝物集(ほうぶつしゅう)』を著す。86年(文治2)、かつて尾張(おわり)国にあったとき、野間荘(しょう)にある源義朝(よしとも)の墓に水田30町を寄進し、小堂を建てた功により、阿波(あわ)国(徳島県)麻殖保(おえのほ)保司になっている。

[樋口州男]

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改訂新版 世界大百科事典 「平康頼」の意味・わかりやすい解説

平康頼 (たいらのやすより)

平安末期・鎌倉初期の武士,歌人。生没年不詳。阿波国に生まれる。今様や和歌の芸にすぐれ,後白河院の近臣として検非違使に任ぜられた。鹿ヶ谷事件に加わり,1177年(治承1)6月,藤原成経・僧俊寛とともに鬼界ヶ島に流された。途中出家して性照を称した。のち赦免されて都に帰り,86年(文治2)源頼朝から阿波国麻殖保保司職を与えられた。仏教説話集《宝物集》の編者とみられる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平康頼」の意味・わかりやすい解説

平康頼
たいらのやすより

平安時代末期の北面の武士,後白河法皇の近臣。承安4 (1174) 年検非違使尉に任官。治承1 (77) 年藤原成親,僧俊寛らと平家討伐の陰謀を鹿ヶ谷の俊寛の別荘で企てたかどで捕えられ,鬼界ヶ島に流された (→鹿ヶ谷事件 ) 。翌年許されて帰京,雙林寺のあたりに移り住み,説話集『宝物集』を編纂した。文治2 (86) 年,康頼がかつて源頼義の墓を訪ね,その荒廃を修復するため水田を寄進し小堂を建てて追善を行なった行為が鎌倉幕府によって賞され,阿波国麻殖 (おえ) の保司に任じられた。『平家物語』の一本でも,彼を阿波国の住人としているから,阿波国出身の下級武士で,今様や和歌などの芸能に長じていたため,後白河上皇の庇護を受け出世したものであろう。

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朝日日本歴史人物事典 「平康頼」の解説

平康頼

生年:生没年不詳
平安末・鎌倉前期の人。正治2(1200)年には生存。仏教説話集『宝物集』の編者か。歌人。衛門府官人,検非違使を経,後白河院近習として活躍。今様を後白河法皇に習い(『梁塵秘抄口伝集』巻10),「猿楽狂い」といわれるほどに芸能に熱中する。治承1(1177)年の平家打倒を企てた鹿ケ谷事件に連座し,藤原成経,俊寛と共に鬼界ケ島に流される。配流の途中で出家。法名性照。のち許されて治承3(1179)年帰洛。『平家物語』では,以後東山双林寺辺りに住み,『宝物集』を著したとする。文治2(1186)年源頼朝から阿波国(徳島県)麻殖保の保司に任ぜられる。中原頼季の息子か(『勅撰作者部類』)。

(櫻井陽子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平康頼」の解説

平康頼 たいらの-やすより

?-? 平安時代後期の武士。
後白河法皇につかえ検非違使(けびいし)となる。安元3年(1177)鹿ケ谷(ししがたに)事件に連座して俊寛らとともに薩摩(さつま)(鹿児島県)鬼界ケ島(きかいがしま)(硫黄島(いおうじま))に流された。のちゆるされて京都にかえり,説話集「宝物集」をあらわした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平康頼」の解説

平康頼
たいらのやすより

生没年不詳
平安末期の公卿
1177年藤原成親・僧俊寛ら後白河院の近臣とともに鹿ケ谷の陰謀に参画したが,露見して俊寛らと鬼界ケ島に流罪となった。のち赦免されて帰京。説話集『宝物集』を著す。

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世界大百科事典(旧版)内の平康頼の言及

【俊寛】より

…1177年(治承1)同じく院の近臣藤原成親,西光(さいこう)らとともに京都鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘で平氏討滅を謀議したが,多田行綱の密告で露顕し,計画は失敗に終わった(鹿ヶ谷事件)。同年6月3日藤原成経,平康頼とともに薩摩国鬼界ヶ島に配流された。翌年中宮平徳子の安産を祈る大赦に俊寛だけはゆるされず,同島で没した。…

【宝物集】より

…鎌倉時代の法語。平康頼(やすより)編。12世紀末の成立。…

【真葛原】より

…文人の愛好した地で,双林寺境内に西行庵があり,ここで没した頓阿の像とともに西行像が安置される。平康頼の山荘も双林寺付近にあり,そこで《宝物集》を著したという。近世,池大雅も住した。…

※「平康頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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