山辺村(読み)やまべむら

日本歴史地名大系 「山辺村」の解説

山辺村
やまべむら

[現在地名]鈴鹿市山辺町

鈴鹿川の北、河田こうだ村の対岸にあり、北西から延びる丘陵の末端に位置する。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)

<資料は省略されています>

とあり、永承年中(一〇四六―五三)伊勢神宮の御園となっていたこと、また御園内の大鹿おおか村が国分寺領と号し、神宮への上分を減じてきたという。その御園管理者は在地の豪族大鹿国忠で、また大鹿村とは後の国分こくぶ村であることを示す根拠となったものである。「神鳳鈔」には「外宮山辺御薗一石二斗、雑用料二石」とある。両宮の御園であったのが、外宮のみに上分を出すことになっている。なお大鹿氏は大鹿村を根拠としたとされ、鎌倉時代の初め在庁官人として勢力をもつ豪族である(「吾妻鏡」文治三年四月二九日条)

山辺村
やまべむら

[現在地名]能勢町山辺

剣尾けんび山の北西から南西にかけて位置し、北東は丹波国桑田くわた(現京都府亀岡市)。山辺川が南東流し、篠山ささやま(現兵庫県多紀郡篠山町)と池田(現池田市)とを結ぶ池田街道(丹州街道)が通る。上山辺と下山辺に集落がある。古代―中世は山辺庄があった。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)に南北朝初期と推定される山辺村の新氏以下一六氏が書上げられている。

村高は文禄三年(一五九四)検地で六七〇石余(乾家文書)、享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では六八五石余。領主の変遷は栗栖くるす村に同じ。杣木挽高は寛永八年(一六三一)の摂州高付のうち杣高一四二石余が山辺組分で従前どおり免許されている(畑中家文書)

山辺村
やまべむら

[現在地名]榛原町大字山辺三やまべさん

額井ぬかい村東方に位置。慶長郷帳には東山辺村(村高六四〇・三石)とあり、慶長六年(一六〇一)以降松山藩(福島高晴)領。

万治二年(一六五九)に松山藩主織田長頼が遺領を継いだ時弟長政に三千石を分知、その際東山辺村のうち四九三・三九五石の地は旗本織田長政(交代寄合)領となる。さらに元禄三年(一六九〇)長政の遺領を信明(讃岐、のち高家に列す)が継ぐ時弟信清(源次郎、寄合)に二九九・六〇五石を分知、旗本織田氏領東山辺村は村高一九三・七九石となり、残る一四六・九〇五石は松山藩領から同八年幕府領となった。

山辺村
やまべむら

[現在地名]東郷町国信くにのぶ

別所べつしよ村の北、東郷川左岸の段丘上に位置する。山部とも記された。正嘉二年(一二五八)一一月の東郷庄下地中分絵図にみえる志津宮は当地付近にあったと推定されている。藩政期の拝領高五六石余。和田氏の給地(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によると朱高六一石余、高六四石余、うち畑高九石余。免六ツ一分。悪田加損米三石。棟数二軒・役高四〇人。男二一・女二五。中尾なかお村と持合の産土神七谷大明神があった。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六三石余、竈数九。当村は別所村長栄ちようえい寺の管轄下にあり、文化一三年(一八一六)同寺は当村の庄屋・年寄に宛てて死者見届けを厳重にすることを指示している(「長栄寺死者改儀付申渡状」三好家文書)

山辺村
やまべむら

[現在地名]門前町山辺

村の南東に位置。西流するはつヶ川は当地で峡谷部から平野に出、当村西方に平野が開ける。天正年間(一五七三―九二)の一〇月五日付三輪吉宗書下(道下村文書)に「一尺 山辺村」とみえ、八ヶ川の鮭川役一尺が賦課されていた。正保郷帳では高二八石余、田方一町三反余・畑方五反余。承応三年(一六五四)の村御印でも同高、免四ツ九歩(能登奥両郡収納帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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