デジタル大辞泉
「岡田為恭」の意味・読み・例文・類語
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おかだ‐ためちか【岡田為恭】
- 江戸末期の復古大和絵派の画家。京都の人。狩野家に生まれ、岡田家の養子となる。大和絵の技法を研究。一時、冷泉三郎を名乗る。「春日権現験記絵」など古画の模写をする。文政六~元治元年(一八二三‐六四)
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岡田為恭
没年:元治1.5.5(1864.6.8)
生年:文政6.9.17(1823.10.20)
江戸末期の復古大和絵派の画家。画家狩野永泰の3男として京都に生まれる。幕末京狩野派の画家永岳は為恭の伯父。幼名を晋三,三郎,諱を永恭。父永泰の没後間もなく,自ら冷泉姓を名乗ったが,嘉永3(1850)年蔵人所衆岡田出羽守の株を購ってその養子となり,岡田氏を称し,姓を菅原と改めた。同年正六位下式部大録に叙任され,安政2(1855)年式部少丞に昇った。翌3年関白九条尚忠のお付きとなって関白直廬預と称し,5年従五位下に叙せられた。文久2(1862)年近江守となるが,幕府に通じているとの嫌疑をかけられ,官位を辞退したが,以後尊皇派の浪士に狙われるようになったため,親交を結んでいた僧願海をたよって紀州粉河寺に逃れる。しかし,ついに長州藩士の凶刃のため大和丹波(天理市)で非業の最期を遂げた。絵ははじめ父に学んだが,やがてやまと絵に興味を抱き,京都の古寺名刹の所蔵する古画の模写に努め,一家を成した。有職故実にも通じ,代表作に大樹寺(愛知県岡崎市)障壁画がある。<参考文献>逸木盛照『冷泉為恭の生涯』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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岡田為恭
おかだためちか
(1823―1864)
江戸末期の復古大和絵(やまとえ)派の中心画家。狩野(かのう)永泰の子として京狩野の正系に生まれる。名は晋三。冷泉(れいぜい)三郎を自称し、宮廷趣味に徹し、蔵人所衆(くろうどどころしゅう)岡田家の養子となり、のちに近江守(おうみのかみ)従(じゅ)五位下となる。形式化した狩野派の画風から離れ、京都周辺の豊かな大和絵の遺品から古来の画法を独力で研究する。また復古大和絵派の浮田一蕙(いっけい)に学ぶ。早熟でエネルギッシュな作画活動を行い、また『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』や知恩院の『法然上人絵伝(ほうねんしょうにんえでん)』48巻をはじめさまざまなジャンルの古画を精力的に模写している。有職(ゆうそく)故実などの知識や古典的な教養も深い。しかし模写活動に専心するあまり勤皇方とも幕府方とも接触したために、双方より疑惑を買い紀州(和歌山県)粉河寺(こかわでら)に逃れ出家したが、ついに大和で斬殺(ざんさつ)された。京都小御所の襖絵(ふすまえ)(1855)、岡崎市大樹寺(だいじゅじ)の障壁画(1856)など多くの遺品が残されている。
[加藤悦子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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岡田為恭 (おかだためちか)
生没年:1823-64(文政6-元治1)
幕末に活躍した復古大和絵派の画家。京狩野の画家狩野永泰の子で京で生まれた。若年から画才を発揮したが狩野の画風になじまず,《源頼朝像》などの肖像画や仏画,《法然上人絵伝》《春日権現霊験記》をはじめとする古典絵巻の膨大な模写を行って,やまと絵の技法表現を学んだ。冷泉(れいぜい)や菅原姓を名のり朝廷の官位に執着した為恭は,有職故実にも通じ生活全般にわたって尚古趣味が強い。佐幕派と誤解され大和丹波で勤王の浪士に斬殺された。代表作に大樹寺の障屛画《円融院天皇子日御遊図》などがある。
執筆者:鈴木 廣之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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岡田為恭【おかだためちか】
冷泉(れいぜい)為恭とも。江戸末期の画家。京都の人。狩野家の生れ。有職故実の研究や古画の模写に精進し,田中訥言や浮田一【けい】らの大和絵復興運動を推進(復古大和絵派)。作品には,王朝的世界への憧憬(どうけい)の念が脈打っている。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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岡田為恭 おかだ-ためちか
1823-1864 幕末の画家。
文政6年9月17日生まれ。狩野永泰の3男。「春日権現験記」「法然上人絵伝」などの古画を模写して復古大和絵派として活躍。京都所司代酒井忠義(ただあき)との交遊から佐幕派の嫌疑をかけられ,元治(げんじ)元年5月5日大和(奈良県)丹波市(たんばいち)で尊攘(そんじょう)派の浪士に殺された。42歳。京都出身。別姓に冷泉(れいぜい)。通称は三郎。作品に愛知県岡崎市の大樹寺障壁画。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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岡田為恭 (おかだためちか)
生年月日:1823年9月17日
江戸時代末期の復古大和絵派の画家
1864年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の岡田為恭の言及
【復古大和絵派】より
…江戸後期から幕末に活躍した[田中訥言](とつげん)とその門人[浮田一蕙],渡辺清(1778‐1861),訥言に私淑した[岡田為恭](ためちか)らの画家を指していう。大和絵の原典に接してその模写を精力的に行い,[土佐派],[住吉派]ら既存の大和絵流派にとらわれず,源流をさかのぼって古典に規範を求め,活力ある大和絵の創造を試みたことに特色がある。…
※「岡田為恭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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