障屛画(読み)しょうへいが

改訂新版 世界大百科事典 「障屛画」の意味・わかりやすい解説

障屛画 (しょうへいが)

障壁画と屛風絵の総称絵画の画面形式はさまざまだが,生活空間を彩る大画面絵画として早くから日本で愛好されたのは,屛風形式の諸作品であった。756年(天平勝宝8)聖武天皇の没後にその遺愛品を東大寺大仏献納した際の目録《東大寺献物帳》には,正倉院に現存する《鳥毛立女屛風》をはじめ,多くの纈(きようけち)や﨟纈(ろうけち)などの屛風百帖について,画題や形式などが詳細に記録されている。そのなかに絵画の屛風21帖が含まれ,山水画や風俗画など多様な中国的画題の屛風絵が,当時さかんに請来されていたことが知られる。これら絵画の屛風絵はすべて814年(弘仁5)に平安京内裏に移送され,その後の障屛画制作の規範となった。9世紀初頭には,嵯峨天皇の内裏清涼殿に山水画の壁画が,また紫宸殿障子に中国歴代の賢聖名臣32人の立像賢聖障子(けんじようのしようじ))がはじめて描かれた。この唐朝宮殿の巨障高壁絵画を倣った日本の宮廷絵画の制は,現在の京都御所に継承されている。このような中国的画題の障屛画は〈唐絵〉とよばれ,儀礼空間意味づけに重要な役割をはたした。さらに中国の詩文集を典拠に《文選(もんぜん)》《楽府(がふ)》《長恨歌》などの屛風がさかんに制作され,それら屛風絵を題材にして詩作が試みられ,絵画の芸術的享受を促した。東寺に伝来した《山水(せんずい)屛風》(現,京都国立博物館)はそのような唐絵屛風の貴重な遺例である。

 9世紀後期に入って和歌の全盛期をむかえ,障屛画に日本の諸景物や勝景を描いた〈やまと絵〉画題の諸作品が誕生した。やがて,日本人特有の生活感情に支えられ,四季や12ヵ月の景趣に彩られた人間の営みを描く四季絵や月次絵(つきなみえ),日本諸国の名所を描出する名所絵などのやまと絵障屛画が,文献に数多く記録されるようになる。神護寺所蔵の《山水屛風》は,そのようなやまと絵障屛画の作風を例証する希有な遺作である。1136年(保延2)藤原宗弘が大和の内山永久寺に描いた《真言祖師行状説話》の障子絵(襖絵)には,日本化した平明な風景描写がみられる。ちょうどそのころの法金剛院障子絵から,1173年(承安3)の最勝光院障子絵をへて,1207年(承元1)の最勝四天王院障子絵にいたると,寺院堂塔の障子絵から宗教的荘厳性が消失し,やまと絵景物画への移行が著しくなる。

 このような障屛画の根強い伝統にもかかわらず,14世紀の後半にいたると著しい変貌をとげる。その一つはやまと絵景物障屛画自体の変質である。まず障屛画から和歌との連係を示唆する色紙形が消滅する。さらに屛風各扇の縁どりが失せ,画面は6曲つづきの大画面となり,1帖単位ではなくて2帖でもって一双形式に組成された新しい単位に変化する。画面は花木モティーフなどで可視的効果の高い構成をとり,ついに1470年前後(応仁~文明)にいたって豪華な金地障屛画の普及をみる。いま一つの大きな変化は水墨障屛画の成立である。13世紀の後半以降,中国の宋・元名画が蓄積され,14世紀末から歴代室町将軍の絵画愛好も加わって,水墨障屛画の新しい領域が開かれた。中国の名作を尊重してその構図方式を習い,その筆法を学ぶことによって,大画面水墨障屛画は飛躍的に多彩となった。

 15世紀は彩・墨混在の時代であったが,16世紀初め,幅広く画技を習得した狩野元信の出現により彩・墨を兼ねる流派様式を確立する。障屛画制作に対する狩野派の指導理念は,やがて17世紀の末に狩野永納がその著書において明らかにする。すなわち,《本朝画史》に示された障屛画制作の方式では,城郭御殿において多様化した生活空間の機能に画題や技法をみごとに対応させて整合的にとらえる。居住空間としての奥向きでの私的な生活の場には山水を水墨で描き,公式対面の接客空間には人物画を彩色で表し,人々が集まり歓談する大広間には花鳥を,さらに廊下など庇(ひさし)の間には走獣を濃彩でもって華やかに表現すべきだという。この障壁画方式と関連して,本来可動的な屛風や衝立(ついたて)の絵画では,山水,人物,花鳥いずれの場合も四季をもって構成すべきだと説く。

 こうして,障屛画は空間的な広がりを志向する。たしかに,御殿は多数の部屋で構成され,拡散するほかない構造をもつ。だが,同時に障屛画はその広がりゆく多彩な室空間にある種の秩序をあたえる。それは障屛画が適宜に間仕切ることによって生ずる秩序である。ことに障壁画は建造物に直結し,それらおのおのの絵画がもつ意匠的な手段によって間仕切りの効果を発揮する。屛風や衝立などの可動的絵画はさらに間仕切りを細分化しうる自由さをもっている。障屛画はこうして,ただの室内装飾画としてあるのではなく,絵画の機能によって生活空間を仕切ることにより,おのおのの空間に意味を付与するのである。それゆえに,障屛画は本来的に建造物と結合してその存在を主張する絵画である。
安土桃山時代美術
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の障屛画の言及

【室町時代美術】より

…夢窓疎石による天竜寺庭園や西芳寺洪隠山枯山水石組みもまた,平安時代以来の庭園の伝統に,新たな禅の精神の骨組みを加えたものである。
[やまと絵]
 唐物趣味の流行に押されて,また宮廷や公家の経済的劣勢もあって,伝統的なやまと絵の分野は停滞したとみられているが,それは,障屛(しようへい)画の遺品が乏しいためであって,実際は新しい動きのあったことが,14世紀の絵巻の画中に描かれた障屛画などからうかがえる。古代以来の屛風の一扇ごとの縁が取り払われて,それが構図の統一を有利にしたことも推察できる。…

※「障屛画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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