江戸後期の画家。復古大和絵派の祖と呼ばれる。初め応挙の師として知られる石田幽汀(1721-86)に学び,後に土佐光貞(1738-1806)に師事して法橋(ほつきよう)に叙せられた。また1790年(寛政2)新内裏造営,障壁画制作に携っている。佐竹本《三十六歌仙絵巻》などの模写を通じて大和絵の古典を研究し,四条派全盛の上方画壇にあって新鮮な作風を生んだ。師の没後は嗣子光孚(みつざね)の後見役を果たし,名古屋を中心に活躍した。色彩に関する古典研究《色のちくさ》(1818)を著し,その門から浮田一蕙,渡辺清(1778-1861)らが出た。眼病に苦しみ,失明を苦に自殺したとも伝えられる。
執筆者:鈴木 広之
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江戸後期の画家。名古屋に生まれる。名は敏、痴翁・得中・過不及子・求明などと号した。若くして京都に出て土佐派を学んだが、一方、古画の模写に努めて、ついに大和絵(やまとえ)への直接的な復帰を提唱するに至る。したがって復古大和絵派の先駆者となったが、自らは政治的な活動には関与せず、画業に専念した。平等院鳳凰(ほうおう)堂の壁扉絵をはじめ精緻(せいち)な模写が多く残されている。また王朝的な主題を扱った大和絵風の作品や、琳派(りんぱ)の手法を取り入れた『雨中蓮鷺図(うちゅうれんろず)』などの佳品もある。晩年に失明し、失意のうちに自殺したと伝えられる。門人には浮田一蕙(うきたいっけい)、渡辺清がいる。
[加藤悦子]
…江戸後期から幕末に活躍した田中訥言(とつげん)とその門人浮田一蕙,渡辺清(1778‐1861),訥言に私淑した岡田為恭(ためちか)らの画家を指していう。大和絵の原典に接してその模写を精力的に行い,土佐派,住吉派ら既存の大和絵流派にとらわれず,源流をさかのぼって古典に規範を求め,活力ある大和絵の創造を試みたことに特色がある。…
※「田中訥言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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