崎山村
さきやーんむら
[現在地名]竹富町崎山
西表島南西端、網取湾に注ぐウダラ川と鹿川湾を結ぶ地峡の西側にある半島状の地を村域とする行政村。ほぼ全域が二〇〇―三〇〇メートルの山地で、海岸線は海崖をなし、平地部はきわめて少ない。地元ではサキャーンという。北の崎山湾西岸に本村の崎山村があって番所が置かれ、小村として網取湾西岸に網取村、南の鹿川湾西岸に鹿川村がある。
土地・水利・港津に恵まれ、難破船救助に便利という理由から乾隆二〇年(一七五五)慶田城村南部に新設された村で(球陽)、八重山島年来記によると波照間村から二八〇人、網取村から六二人、鹿川村から九二人、祖納村から一〇人、合計四五九人で村立てがなされたという。乾隆二年の網取村・鹿川村の人口や、慶来慶田城由来記の「あめ取・鹿川弐ケ村本ニシテ、波照間島より百姓男女弐百人余寄り百姓仕、崎山村建置候」の記載から、崎山湾西岸地域に波照間島・祖納村から百姓を移住させて新集落を崎山村とし、それまで慶田城村域であった網取・鹿川両村をその小村として行政村崎山村を立てたものであろう。立村当時どの間切に属したかは不明で、乾隆三三年の間切改正で大浜間切に所属(与世山親方八重山島規模帳)。同三六年の明和大津波では人口五二五人のうち二三人が石垣島出張中に溺死、家二軒が流出し、畑一一町二反と田六反余の作物に被害が出た(大波之時各村之形行書)。
崎山村
さきやまむら
[現在地名]福江市上崎山町・下崎山町・向町
本山村・福江村の南東に位置する。北西に鬼岳・火ノ岳、南東に箕岳・臼岳、北東に白浜浦、南西に塩津浦の入江がある。西方に鐙瀬があり、沖に黒島が浮ぶ。正平一一年(一三五六)本村基重が五島に下向し、当地に居住したと伝え、現向町の城ノ辻は本村兵庫之助が築城した崎山城の跡という。宗像三神を祀る白浜神社は元中五年(一三八八)の創祀と伝え、塩津神社は天文一九年(一五五〇)の創建という。上崎山町の墓地に江戸前期の板碑型石塔が数基ある。
江戸時代は福江藩領崎山掛に属する。寛永一四年(一六三七)の福江領崎山領寺水帳(五島編年史)に崎山村大通寺とあり、寺領三石余、同じく大応寺二石余、徳知庵一石余。万治二年(一六五九)の惣高積之帳に「崎山村上下」とみえ、正保国絵図の高五三五石余、今高一千三八五石余。万治年間とされる五島一円惣高帳では高一千三八五石余、うち蔵入地五五九石余・給地八一七石余・寺社領八石余。
崎山村
さきやまむら
[現在地名]宮古市崎山 崎山・
松月・
女遊戸・
箱石 南は鍬ヶ崎村、東は海に面する。浜街道が通る。松月・女遊戸・中ノ浜・宿など海に臨む半農半漁の集落と、山間にあって農林業を主とする崎山・箱石・八ッ川の集落に二分される。三閉伊道中記(盛岡市中央公民館蔵)に「女遊部、家二十軒、此処村中に女遊部川の流有、きふねの社などありて、よき里也、夫より三丁余行て女遊部前坂とて急なる坂あり、此処より海の面を見渡たる、いわんかたなし」とある。武田氏系一条氏の譜(参考諸家系図)に「覚左衛門、寛永四年家督の時、閉伊郡崎山前沢に二百石を賜ふ」とある。正保国絵図に村名がみえ、高四四石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高八六石余、七ヵ年平均の免一ツ三分七厘。
崎山村
さきやまむら
[現在地名]犀川町崎山
山鹿村の南に位置し、今川両岸に小集落が散在。南と西は田川郡境。観応三年(一三五二)三月一〇日の某感状写および同年六月日の西郷有政軍忠状写(ともに西郷文書/南北朝遺文(九州編)三)によれば、当時足利直冬方であった西郷有政は「崎山・大坂」に関を築いて田川郡から侵入した武藤但馬守らと戦った。元和八年人畜改帳によると給人一人分の高九〇石と給人四人分の高八一三石の二筆に分けて記され、家数八七・人数一七九(うち庄屋五・百姓一〇・鍛冶一・名子三一)、牛二二・馬六。
崎山村
さちやまむら
[現在地名]那覇市首里崎山町一―四丁目
首里城の南東に接し、南風之 平等の南端に位置する。東の赤田村・鳥小堀村とともに首里三箇とよばれた。首里古地図には東西の通りを軸にして五三の屋敷地が記載されるほか、東側・西側には田畠もみえる。屋敷地のうち一ヵ所は嘉陽親雲上後家とある。ほかにも建善寺・御茶屋・雨乞御嶽、南のはずれにはナゲーラ橋・ヒジ川橋と思われる二つの橋を確認できる。なお建善寺はすでに万暦四七年(一六一九)に当蔵村広徳寺の南に移転したとみられるが、同図には反映されていない。
崎山村
しちやまむら
[現在地名]今帰仁村崎山
仲尾次村の東に位置し、北と東は海に臨む。村域は南西―北東に流れるジニンサガーラの下流部から河口部の左岸を占め、同川を境に南は平敷村。ジニンサガーラ河口部および大井川の河口部にあたる当村東側の海域は、かつては山原船などの寄港する炬港の一画にあたり、当地の海岸部には同港から積出す荷を保管する倉も設けられていた。シチャマ(ヒチャマ)と発音する。「崎山誌」によるとヒチャマとは下間のことで、集落がかつてメンス(前の洲)の下間という所にあったことに由来するという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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