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崔述 さいじゅつCui Shu

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

崔述
さいじゅつ
Cui Shu

[生]乾隆5(1740)
[没]嘉慶21(1816)
中国,清代中期の史学者,考証学者。河北省大名県の人。字は武承。号は東壁。乾隆 27 (1762) 年の挙人。初め官についたが福建省羅源県の知県を最後に退官して研究に専念。著書は『考信録』 (36巻) が有名で,その徹底した批判精神は,ときに極端に走るとはいえ,清朝考証学の一側面を示すものである。

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百科事典マイペディアの解説

崔述【さいじゅつ】

中国,清代の古代史学者。号は東壁。河北省の人。1762年挙人。56歳から6年間,福建省で県知事となったほかは,貧窮の中で学問,著述に励んだ。漢学に対し批判的で,経書の絶対性を疑い,孔子の伝記に関する実証的・批判的研究《洙泗(しゅし)考信録》をまとめた。
→関連項目洙泗考信録

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世界大百科事典 第2版の解説

さいじゅつ【崔述 Cuī Shù】

1740‐1816
中国,清朝の学者。字は武承,号は東壁。河北省大名県の人。乾隆27年(1762)挙人。幼時より父崔元森に朱子学を学び,15歳のとき,大名府知事の朱瑛にその学才を見いだされ,23歳まで朱瑛らの教えを受けた。35歳を過ぎ,秦・漢以来の儒家の経書の注釈には,経書の本文と,あるいは注相互の矛盾があり,また孔子など昔の聖賢の行為として伝えられるものにも矛盾があることに気づき,古代の歴史を知るには,経書の本文によって考えるのが正しい方法であるとして,《考信録》の著述に着手。

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大辞林 第三版の解説

さいじゅつ【崔述】

1740~1816) 中国、清代中期の学者。号は東壁。古代の史実に対して徹底的な文献批判を試みた。著「洙泗考信録」「孟子事実録」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

崔述
さいじゅつ
(1740―1816)

中国、清(しん)朝中期の学者。字(あざな)は武承(ぶしょう)、号は東壁(とうへき)。河北省大名の人。1762年の挙人。父の元森(げんしん)から朱子学を受け、56歳のとき羅源(らげん)県の知県となって治績があったが、6年後、官を辞めて古史研究に専念し、77歳で没した。早くから古代の伝承と史実との間の違いに疑いを抱き、伝注の権威を否定し、「徴実」と「考信」を標榜(ひょうぼう)して、厳しい資料批判に基づく独自の学風を確立した。この学風は近代に至り胡適(こてき)、顧頡剛(こけつごう)らの注目するところとなり、いわゆる疑古派の学者たちに大きな影響を及ぼした。代表作に『豊鎬(ほうこう)考信録』『洙泗(しゅし)考信録』『孟子(もうし)事実録』『読風偶識』などがあるが、それらは門人の陳履和(ちんりわ)(1761―1825)の編した『崔東壁遺書』に収められている。なお、同書は日本でも那珂通世(なかみちよ)校点の史学会刊本(1903)があり、明治の史学界に方法論上で少なからぬ刺激を与えたものとされている。[村山吉廣]

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世界大百科事典内の崔述の言及

【歴史】より

…〈徴(証拠)無くんば信ぜず〉という考証学の原則をつきつめていくと,その根底にある儒教的理念を自ら疑う結果となる。崔述(1740‐1816)の《考信録》は儒家の一部の経典に依拠して他の経書および諸子百家に史料批判を加えた。清末の政治改革家康有為は,崔述に一歩を進めて,儒家経典に記載する黄帝・尭舜・夏殷周三代の歴史は事実そのものでなく,孔子がその理想世界を述べるためのフィクションであったと主張した(《孔子改制考》)。…

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