かつては風俗小説ということばがあったが、現在ではほぼ死語となっている。風俗小説は辞書的な定義では世態や人情、風俗を描くことを主たるものとしている小説のことだが(『広辞苑』)、狭義には中村光夫がその『風俗小説論』(1950)で展開したように、日本の近代小説のある一時期の小説作品について、「風俗小説」という言い方がなされたのである。丹羽文雄や舟橋(ふなはし)聖一の作品のような、自然主義リアリズムや私小説から、プロレタリア文学を経て、現代社会の世態、人情、風俗を描き出した「世俗」的な小説。純文学でもなく、大衆文学でもないという意味で、「中間小説」と名づけられたジャンルの文学作品にそれは似ているが、本来は坪内逍遙が『小説神髄』のなかでいっているように小説というものは「人情・世態」や「風俗」を描くものであって、風俗を描くことと小説であるということとは同義なのであった。バルザックやモーパッサン、ドストエフスキーやトルストイの小説も広義には「風俗小説」といえるものであって、小説=風俗という等式も成り立つのである。
もともと、小説は稗史(はいし)小説の意であり、正史からこぼれ落ちた稗史や、大説、すなわち天下国家を論じた大いなる説に対して、世間や社会の片隅や日常の些細(ささい)な事件や現象についての小さな説を、街角で講釈師たちが演じたのが始まりである(中国)。日本では宇治大納言のような風流人が、世間の噂(うわさ)や伝承や伝説を「今は昔」のこととして筆録したのが、「説話物語」の始まりであり、小説の濫觴(らんしょう)(ものの始まり)だった。政治家や武将、官僚や盗賊の話、女と宗教者、下人と下女の笑い話、姦通(かんつう)や姦淫(かんいん)の話や、幽霊・妖怪(ようかい)・動物にまつわる怪奇な伝承と幻想の物語。まさに、それらの近代小説の原型としての「物語」は、風俗を対象とし、風俗を描き出すことをその主眼としていたといえる。
江戸時代の遊廓(ゆうかく)を舞台とした洒落(しゃれ)本や人情本の世界も、当時の風俗を相手とした「風俗小説」であり、それは永井荷風などの「花柳小説」の伝統として現代小説の世界にまで引き継がれている。戦後一時期語られた「全体小説」も、また一面からみれば「風俗小説」の再来といえないこともない。
村上春樹、村上龍(りゅう)、山田詠美(えいみ)、よしもとばなな(吉本ばなな)などの現代小説の担い手たちも、それぞれのやり方で現代社会の「風俗」をとらえようとしている。「風俗小説」ということばは廃れたかもしれないが、小説と風俗との結び付きは時代と作家を越えているのである。
[川村 湊]
『戸坂潤著『思想と風俗』(1936・三笠書房)』▽『中村光夫著『風俗小説論』(1950・河出書房)』▽『坪内逍遥著『小説神髄』(岩波文庫)』
風俗描写に主眼を置いたとみられる小説。海外の文学にもその例は少なくないが,日本では坪内逍遥が《小説神髄》(1885-86)に〈小説の主脳は人情なり,世態風俗これに次ぐ〉と唱えたことから風俗小説のあり方が問題とされる。なかでも中村光夫の《風俗小説論》(1950)は,その系統を小栗風葉の《青春》(1905-06)あたりから探って,日本の近代小説のゆがみを指摘したものとして知られる。風俗小説が表面的なリアリズムに走って,そこに小説本来の虚構性,ひいては作者の思想性が欠如していることに言及してもいるからである。《風俗小説論》には,この系統の作家として横光利一,武田麟太郎,丹羽文雄らが挙げられているが,永井荷風の《濹東綺譚(ぼくとうきだん)》(1937)なども,一つの時代を描き出している風俗小説であり,その後の現代文学(たとえば丸谷才一の小説など)にも時代の風俗は多様に取り扱われているのである。
執筆者:保昌 正夫
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…戦時中は時代,通俗,探偵各分野で主題や展開にプレッシャーがかかり,自粛する向きもあったが,その反面で文芸のマスコミ化に対する反省も生まれ,史伝小説や実録などにも大作が生まれる。
[多彩な変貌]
大衆文学の歴史が,ふたたび活力を取り戻すのは,太平洋戦争がおわってからであり,戦後占領の政治的規制はありながらも民主化の解放感の中で,文芸の中間化が促進され,風俗小説を主とした中間小説の流行を見る。サンフランシスコ体制が固まる前後から,新たなマス・メディア状況に入り,民間放送やテレビ放送の開始によって大衆文学の内容と形態が大きく改まる。…
※「風俗小説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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