昭和期の文芸評論家 元・明治大学教授。
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評論家。明治40年10月30日京都に生まれる。本名は朗(あきら)。第八高等学校時代に藤枝静男、本多秋五(ほんだしゅうご)を知り、1930年(昭和5)東京帝国大学文学部に入学。在学中からプロレタリア文学運動に関係したが、やがて組織のあり方に疑問を抱いて離れ、諸紙誌に作家論や時評を発表。46年(昭和21)戦後文学を主導した雑誌『近代文学』の創刊に参加、旧プロレタリア文学運動を批判して、中野重治(しげはる)との間に「政治と文学」論争を展開した。その結実が『戦後文芸評論』(1948)だが、一方では、近代文学における自然主義的人間観の克服を課題とし、島崎藤村(とうそん)の作家的エゴイズムを剔抉(てっけつ)した『島崎藤村』(1947)や、私小説作家の二律背反を犀利(さいり)に分析した『芸術と実生活』(1958。芸術選奨受賞)が書かれた。長年続いた文芸時評は、秀抜な鑑賞力で定評がある。ほかに、自己の体験に深く根ざした『昭和文学史』(1959)など、第二次世界大戦後の代表的評論家・文学史家として卓越した業績を残した。明治大学教授。芸術院賞恩賜賞を受賞。昭和53年4月3日没。
[宗像和重]
『『平野謙全集』全13巻(1974~75・新潮社)』
評論家。京都生れ。本名は朗(あきら)。東京に育ち学齢前に岐阜の実家に帰る。岐阜中時代から文学に親しむ。八高をへて1930年東京帝大文学部社会学科入学。このころマルクス主義文学運動に関心を高め活動に入るが,運動の壊滅と大量転向,リンチ共産党事件に衝撃を受ける。戦後の46年本多秋五らと《近代文学》を創刊。運動挫折と戦中の体験を基礎に同年《島崎藤村--〈新生〉覚え書》を発表,〈宿命の特権化〉を唱え〈政治の優位性〉理論の人間蔑視を批判,中野重治らと〈政治と文学〉論争を展開し戦後文学の代表的批評家となる。そのマルクス主義文学批判の精緻な史的検討を《昭和文学史》(1959)に集大成した。私小説的文学伝統の克服を課題とし私小説の二律背反を解明,芸術と実生活の相関関係を追求した《芸術と実生活》(1958,芸術選奨受賞)は批評のリアリティの一極致とされる。ほかに《文芸時評》(1963,69年毎日出版文化賞),《さまざまな青春》(1975,野間文芸賞)などがある。
執筆者:中山 和子
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…また,昭和初期のプロレタリア文学の台頭は芸術の大衆化の問題を提起するとともに,身辺雑記的な私小説を超える社会意識,階級的自覚を作家に要求するものであったため〈純文学〉の理念はこの面からも時代の波にさらされることになった。こうした過程を経て,戦後,マスコミの発達が文学の大衆化を余儀なくさせた事態に着目した平野謙は,大正以来の純文学にかわる新しい文学は,アクチュアルな社会的関心に基づく文学的志向が要求されるべきことを力説した。【村松 定孝】。…
…その主なものは志賀直哉の系統では滝井孝作《無限抱擁》(1921‐24),尾崎一雄《二月の蜜蜂》(1926),《虫のいろいろ》(1948)など,葛西善蔵の系統では牧野信一《父を売る子》(1924),嘉村礒多(かむらいそた)《途上》(1932)などがある。そして前者を調和型心境小説,後者を破滅型私小説に分ける解釈が後に伊藤整《小説の方法》(1948)と平野謙〈私小説の二律背反〉(1951)によって完成,定着していった。伊藤の《小説の方法》と,〈私小説の二律背反〉を含む平野謙《芸術と実生活》(1958)は私小説論の最重要文献である。…
※「平野謙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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