川口番所跡(読み)かわぐちばんしよあと

日本歴史地名大系 「川口番所跡」の解説

川口番所跡
かわぐちばんしよあと

[現在地名]米子市灘町一丁目

米子湊出入りする船舶等の監視のために加茂かも川河口に設けられた番所。享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(県立博物館蔵)などによれば、河口部右岸、なだ町西方部にあった。設置の時期は不明だが、近世初期にさかのぼることは確実で、寛文五年(一六六五)深浦ふかうら番所が設置されて以後、川口番所とよばれることとなった。当初米子荒尾氏の管理下にあり同氏家臣が定番として配されていたが、貞享(一六八四―八八)頃藩の船手役所の管下に移され、小船頭・水主小頭らが派遣された(藩史)。寛延二年(一七四九)の幕府巡見使への御答書(同書)によれば、役所は二間半四方、別に二一坪の番人居宅、一〇坪の下番居宅二棟があった。


川口番所跡
かわぐちばんしよあと

位置は不明であるが、寛政年間(一七八九―一八〇一)御城下絵図に後の新川口御番所脇に「守屋敷」があるので、本渡もとわたり町付近とすべきである。番所の設置について、「梅津政景日記」元和二年(一六一六)五月一三日条に次の記事がある。

<資料は省略されています>

当初、由利からの北国道は赤尾津あこうづ(現由利郡岩城町亀田)経由で、豊巻とよまき(現豊岩)舟場から雄物川を渡り久保田に入った。その舟場を川口に移す陳情があり、いつ実現したかは不明。しかし、同書寛永六年(一六二九)四月一五日条に、「事ふれ(鹿島事触)より御法度ニ被仰付候処ニ、御分国へ入候事、院内口・川口両所へ不届之由、御意ニ候、川口へハ則申付候」とあり、川口には番所を設け、旅人の出入を監視した。


川口番所跡
かわぐちばんしよあと

[現在地名]福江市栄町

江戸時代、福江藩が設置した番所。寛文四年(一六六四)川口番所掟(律令採要)を触れ、船の出入りは手形を入念に確認し、異状があれば家老に連絡することと定め、他領への売出しを禁じる物として松・杉・楠・欅・栗木・漆木などの林産物、焼物土石・薬石などの鉱産物、島雉子・島鴨・巣鷹などのほか於胡などの海産物をあげている。同八年改めて自他領の品々の流出入について当勤番に二〇ヵ条を示し、異国船発見の際の注進、旅船入港の折の往来手形富江領の船の改、福江城下の商船の検査などの規定を設けた(律令採要)。川口番所では詰所の上ノ間に番人、下ノ間に口銭取りや船見が詰め、当番の藩士二人は出入船の日録をつけ目付に報告した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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