川口郷(読み)かわぐちごう

日本歴史地名大系 「川口郷」の解説

川口郷
かわぐちごう

[現在地名]八幡市川口〈馬屋尻うまやじりおうぎしば北浦きたうら小西こにし高原たかはら天神崎てんじんざき萩原はぎはらはま東頭ひがしがしら別所べつしよほりうち〉・下奈良一丁堤しもならいつちようづつみ

八幡そと四郷の一。集落部分は川口村とも称し、河口とも記した。金振かなぶり園之そのの町の東方にあたり、北は木津きづ川、東は下奈良村、南は戸津とうづ村。

近世初期の八幡宮境内古図(「石清水八幡宮史料叢書」所収)によると川口村は東西七一間、南北一三〇間(これは現川口堀ノ内の中央部分に該当する)。また「男山考古録」の川口村用水樋の条に「木津川筋川口領字一町堤といふ所、戸前四柱建といふ、寛保二年伏替被仰付といふ」とあって一町堤(現下奈良一丁堤)は川口の内であった。


川口郷
かわくちごう

和名抄所載の郷。訓を欠くが、同名の郷には武蔵国多磨たま郡川口郷を「加八久知」(高山寺本)・「加波久知」(東急本)、越前国坂井さかい郡川口郷を「加波久知」(諸本)とするので、カハクチの読みを妥当とする。郷名は、正倉院蔵の調綿紙箋に「越中国射水郡川口郷戸主中臣部照麻呂戸調白牒綿一屯 天平勝宝六年十月二十一日」とあるのが早く、当郷の存立が奈良時代にさかのぼることを物語る。調綿について「白牒綿一屯」とあるが、「延喜式」主計寮には越中国の調として「白畳綿」「白細屯綿」、庸のなかに畳綿・白綿がみえる。牒綿の牒には「かさねる」の意味があり「畳」に通じるとされ、その場合には「白牒綿」と「白畳綿」を同義とみてよい。


川口郷
かわぐちごう

「和名抄」にみえる。高山寺本・刊本とも訓を欠くが、武蔵国多磨郡川口郷を「加八久知」(高山寺本)・「加波久知」(刊本)、越前国坂井郡川口郷を「加波久知」(高山寺本)とするのでこれに従う。

古代の川口郷については他にみえず詳細は不明。のちに河口庄が成立するが、その荘域比定から推測して、現福知山市内で由良川へ西方から合流するまき川の河口付近をさしたもののようである。


川口郷
かわぐちごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の武蔵国多磨郡・越前国坂井郡の川口郷には「加波久知」「加八久知」との訓が付されているので、これに準じて訓じておく。「下野国誌」「日本地理志料」「大日本地名辞書」「大日本史」は、いずれも現茂木もてぎ河井かわいにあてる。「栃木県史」は現茂木町飯野いいのの川口に比定する。


川口郷
かわぐちごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「加波具知とよむべし、名義は小川の大川に流レ入る処などにて負せたるか」と記す。これによれば川口は筑後川に流入する支流の河口とみることができ、小石原こいしわら川の下流域がその比定地と考えられる。


川口郷
かわくちごう

「和名抄」高山寺本に「加波久知」と訓ずる。中世には奈良興福寺領河口かわぐち庄が成立した。


川口郷
かわぐちごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「加八久知」、東急本に「加波久知」と訓じる。武蔵国国分寺瓦に「川口」とヘラ書されたものや「川口瓦印」と押印されたものがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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