川島郷(読み)かわしまごう

日本歴史地名大系 「川島郷」の解説

川島郷
かわしまごう

和名抄」高山寺本・東急本・伊勢本は「川嶋」と記し、同書名博本は「河嶋」と記す。同書伊勢本・東急本は「加波之万」と読む。郷名の初出は奈良正倉院宝物の天平四年(七三二)一〇月の黄袷覆銘で、「阿波国麻殖郡川嶋郷少楮里戸主忌部為麿戸調黄絹壱匹」とある(正倉院宝物銘文集成)。また平城宮跡出土木簡に「(表)阿波国□□郡川嶋郷」「(裏)小楮里忌足嶋庸米六斗」ともあり、八世紀の段階で忌部氏の一族が当郷に居住していたことを示している。当郷について江戸時代後期から明治初期にかけて次の三説が提示されている。まず「阿波志」は「今廃、川島街存」として、郷町としての川島(現川島町)付近という吉野川沿いの平野地帯に限定して比定する。

川島郷
かわしまごう

「和名抄」高山寺本の最初に記載され、「加波之万」と読んでいる。同書名博本では「カハシマ」と訓を付している。同書伊勢本・東急本に郷名は記載されていない。高山寺本と伊勢本・東急本とでは、板野郡の記載郷名および記載順が異なる。すなわち高山寺本では川島・井隈いのくま津屋つのや高野たかの小嶋こしま田上たのかみ山下やました松島まつしま八郷がこの順に記載されているのに対して、伊勢本・東急本・元和古活字本では松島津屋高野・小嶋・井隈・田上・山下・全戸(余戸)新屋にいのやの九郷がこの順に記載されている。

川島郷
かわしまごう

「和名抄」高山寺本は「嶋」の字に作り「加波之万」、刊本は「加八之末」と訓ず。「延喜式」諸陵寮式に「河嶋墓 贈正一位当宗氏、在山城国葛野郡、墓戸一烟」とあるのは本郷の名称にちなむ。また「日本紀略」昌泰元年(八九八)一〇月二〇日条に「太上皇遊猟、先是、定左右鶏飼、并行事番子等装束、左右相分、上皇騎御馬、出自朱雀院、至川嶋、始命猟騎、日暮宿赤日御厩」とみえる「川嶋」も本郷をさすと思われる。朱雀すざく(跡地は現中京区)から四条大路を経て京外に出てかつら川を越え、川島郷の地に至ったことになる。

「園太暦」観応二年(一三五一)正月一六日条には「今朝将軍以下籠東寺之由風聞、又或説無其儀、差西没落、欲籠香山寺城之処、於伊山敵切塞不得通、仍逗留桂河西河島辺、南方勇士追懸之由有其聞、而無実歟」とあり、中世にも郷名が地名として残存していたことが確かめられる。

川島郷
かわしまごう

「和名抄」では高山寺本が「川島」、伊勢本・東急本が「嶋」、元和古活字本が「刈島」、名博本が「河辺」とし、いずれも訓を欠く。郷名・訓ともに問題を残すが、本書では仮に「川島」を採用し、「和名抄」の阿波国板野いたの郡川島郷の訓「加波之万」(高山寺本)などを参考にし「かわしま」と読む。

川島郷
かわしまごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」では「加波之末」と読み、「大日本地名辞書」では二河川が相会する所で、川島の形状を成しているとして、加美石かみいし(現宮崎町)をあてている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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