経済哲学者。横浜に生まれる。東京高等商業学校(一橋(ひとつばし)大学の前身)で福田徳三に学び、1904年(明治37)卒業後、ただちにドイツに留学し、H・リッケルトを中心とする新カント派の強い影響下に経済学の哲学的基礎に深い関心を寄せた。1913年(大正2)帰国後、母校や京都帝国大学文学部で独自の経済哲学を講じ、その面で多くの著作を公刊した。研究・教職活動と並行して家業の左右田銀行頭取に就任したが、同銀行は昭和初頭の経済恐慌で破産を余儀なくされた。
左右田の経済哲学は、経済現象の意味としての経済的文化価値の概念を中心に構成されており、彼は経済現象に他の社会現象とは異なった統一性を与え、経済学をして経済学たらしめているものは貨幣だとして、独自の貨幣論を展開した。主著には『貨幣と価値』(独文、1909)、『経済哲学の諸問題』(1917)、『文化価値と極限概念』(1922)などがある。
[早坂 忠 2016年9月16日]
『左右田博士記念会編『左右田喜一郎全集』全5巻(1930~1931・岩波書店)』
明治・大正期の経済哲学者。1904年東京高商(現,一橋大)専攻部卒業後ドイツに留学し,リッケルトに師事した。13年帰国。東京商大,京大の講師を務めた。新カント派の哲学に立って文化価値主義の経済哲学説を開き,《経済哲学の諸問題》(1917),《文化価値と極限概念》(1922)などを著した。父祖の業である左右田銀行を継ぐかたわら,横浜社会問題研究所を主宰し,黎明会に参加し,文化主義を唱道し,大正デモクラシーに理念的支柱を与えた。25年貴族院議員に勅選される。昭和恐慌の勃発で左右田銀行の倒産にみまわれ,みずからも病を得て,27年その生涯を終える。左右田哲学は,短命に終わった大正デモクラシーの記念碑的役割を果たしている。
執筆者:馬場 啓之助
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(山田雄三)
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…ここに理想の追究ないし理念の実現を目ざす理想主義が近世の観念論の一つの型となり,フィヒテの倫理的観念論を代表とする。日本では左右田喜一郎と桑木厳翼とがカントとリッケルトの観念論を文化主義として継承した。【茅野 良男】
[インドの観念論]
インド思想の一般的な特徴は,それが必ずなんらかの宗教体験の上に立って展開されているということであり,この点をはずしてそれが観念論か否かを問うのは危険である。…
…またソシオ・エコノミックスといわれる研究も,経済行為の象徴論的解釈をめざすものであり,主観主義の経済哲学と深い関係をもちつつある。また,日本における左右田喜一郎(そうだきいちろう),杉村広蔵,本多謙三らによる経済哲学の試みも,この範疇(はんちゆう)と考えられる。 近代経済学が哲学とふれあう第2の局面は,いわゆる社会的厚生の問題をめぐってである。…
※「左右田喜一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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