朝日日本歴史人物事典 「源義親」の解説
源義親
生年:生年不詳
平安後期の武士。源義家の次男。母は源隆長の娘。左兵衛尉を経て対馬守に任じたが,肥後守高階基実 などの支持のもとに鎮西9カ国を横行して大宰府の命に従わないなどの乱行を働いた。康和3(1101)年7月,これに対して朝廷は義親追討の官符を下した。一方,父義家は腹心の郎等首藤資通を鎮西に下して義親の召喚をはかったが,資通はかえって義親に味方して追討の官使を殺害するなど事態は泥沼化した。翌4年12月に至り,義親は隠岐に配流されたが,嘉承2(1107)年隠岐から対岸の出雲に押し渡って国守の目代とその郎従7人を殺害し,調庸物(公事物)を奪い取るという事件を起こした。これには近境の国々の住人のなかにも与同する動きがあったため,朝廷は伊勢平氏の因幡守平正盛を起用して追討に当たらせた。翌天仁1年正月,正盛は一戦のもとに義親を破り,その首級をかかげて京都に凱旋した。しかし,この首級が義親のものであったか,その真偽が疑われ,その後,義親生存の風聞や義親を称する者の出現が続いた。院政期における源氏の凋落と平氏の隆盛を象徴する人物といえよう。<参考文献>高橋昌明『清盛以前』,安田元久『源義家』
(野口実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報