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源義親 みなもとのよしちか

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源義親
みなもとのよしちか

[生]?
[没]嘉承3(1108).1.6. 出雲
平安時代後期の武士。義家の子。従五位上,左兵衛尉。対馬守として在任中,人民を殺害したり官物を奪ったりしたため,康和3 (1101) 年大宰大弐大江匡房に告発され,朝廷の追討を受けた。父義家も郎等をつかわして京都へ連れ戻そうとしたが,義親は追討の官使をも殺害し,翌年捕えられ隠岐に流された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源義親 みなもとの-よしちか

?-1108 平安時代後期の武将。
源義家の次男。対馬守(つしまのかみ)となるが大宰府(だざいふ)にしたがわず,康和4年(1102)乱行により隠岐(おき)に配流。嘉承(かじょう)2年出雲(いずも)にわたって役所をおそい,3年1月6日平正盛(まさもり)に追討された。首がさらされたがその真偽がうたがわれ,義親を称する者がしばしば出現した。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

源義親

没年:天仁1.1.6(1108.2.19)
生年:生年不詳
平安後期の武士。源義家の次男。母は源隆長の娘。左兵衛尉を経て対馬守に任じたが,肥後守高階基実 などの支持のもとに鎮西9カ国を横行して大宰府の命に従わないなどの乱行を働いた。康和3(1101)年7月,これに対して朝廷は義親追討の官符を下した。一方,父義家は腹心の郎等首藤資通を鎮西に下して義親の召喚をはかったが,資通はかえって義親に味方して追討の官使を殺害するなど事態は泥沼化した。翌4年12月に至り,義親は隠岐に配流されたが,嘉承2(1107)年隠岐から対岸の出雲に押し渡って国守の目代とその郎従7人を殺害し,調庸物(公事物)を奪い取るという事件を起こした。これには近境の国々の住人のなかにも与同する動きがあったため,朝廷は伊勢平氏の因幡守平正盛を起用して追討に当たらせた。翌天仁1年正月,正盛は一戦のもとに義親を破り,その首級をかかげて京都に凱旋した。しかし,この首級が義親のものであったか,その真偽が疑われ,その後,義親生存の風聞や義親を称する者の出現が続いた。院政期における源氏の凋落と平氏の隆盛を象徴する人物といえよう。<参考文献>高橋昌明『清盛以前』,安田元久『源義家』

(野口実)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

みなもとのよしちか【源義親】

?‐1108(天仁1)
平安末期の武将。源義家の次男。母は三河守源隆長の娘。対馬守として赴任したが,大宰府の命に従わず九州を横行,そのため1102年(康和4)解官(げかん),隠岐に配流(はいる)された。しかし,その後義親は九州より山陰に赴き,出雲で目代(もくだい)を殺害,官物(かんもつ)を押し取った。06年(嘉承1)父義家が没し,翌07年平正盛が追討使に抜擢(ばつてき)されて下向,翌年1月6日義親は正盛に出雲で討たれた。この事件が平氏台頭の直接的契機となった。

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