平沼村(読み)ひらぬまむら

日本歴史地名大系 「平沼村」の解説

平沼村
ひらぬまむら

[現在地名]吉川町平沼

吉川村の南に位置し、村の西を古利根川、村内中央を二郷半領にごうはんりよう用水が流れる。年未詳一〇月一三日の太田資長書状(黄梅院文書)に「平沼郷」とみえ、仔細は未詳ながら同郷の鎌倉禅興ぜんこう寺領を預かっていた金子掃部助入道が太田道灌(資長)に子供を人質として差出して接近したところ、深川太郎左衛門尉が同郷を違乱した。このため佐枝大炊助が道灌に仲介を依頼し、道灌は禅興寺に書状を送って知行の安定化を図っている。当郷はこの頃から禅興寺領であったと考えられ、簗田政助は金子左京亮に同寺領平沼郷を固守すべきことを命じている(年未詳一一月三日「簗田政助書状写」簗田文書)


平沼村
ひらぬまむら

[現在地名]六ヶ所村平沼

小川原おがわら湖の北方田面木たもぎ沼の東岸に位置する。東は倉内くらうち(現高瀬川)、北は鷹架たかほこ村、南は倉内村、西は甲地かつち(現東北町)に接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に平沼村、九石余とある。同年の郷村帳では九・三八六石がすべて畑とある。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には蔵分三五・四石余と郡分郷村高書上二一・六石余の荒地があり、馬一一七匹を飼養した。


平沼村
ひらぬまむら

[現在地名]川島町平沼

白井沼しろいぬま村の西にあり、北は上八ッ林かみやつばやし村。小田原衆所領役帳には小机こづくえ(現神奈川県横浜市港北区)城主北条氏秀の所領として、「卅五貫文 比企郡平沼」とあり、弘治元年(一五五五)検地が行われている。天正一八年(一五九〇)五月日には「伊草 中山 平沼」に前田利家の禁制(写、武州文書)が下されている。田園簿では田高五一五石余・畑高五三石余、旗本酒井領。ほかに氷川明神領高一石二斗、大福だいふく寺領高八斗。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳では高五六四石余、ほかに検地出高として高三四七石余がある。


平沼村
ひらぬまむら

[現在地名]沼津市平沼

愛鷹あしたか山の南麓、大沢おおさわ川の中流左岸に位置する。東は井出いで村、西は石川いしかわ村。村内を根方ねがた街道が東西に通る。寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後幕府領となり、同領で幕末に至った(国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)。寛永改高附帳では田高一〇四石余・畑高三九石余。元禄郷帳では高三五九石余。井出村と同様に天保(一八三〇―四四)以降に東平沼村と西平沼村の二村に分村し、旧高旧領取調帳では東平沼村高三二七石余・西平沼村高一三〇石余の二筆となっている。


平沼村
ひらぬまむら

[現在地名]谷和原村平沼

筒戸つつど村の東、小貝こかい川西岸に位置。永禄四年(一五六一)頃の開村と伝え、草分の伊賀・隼人ほか六人は御出子おんでし城主相馬氏に仕えたという。江戸初期は天領であったが、寛永一三年(一六三六)下総関宿藩板倉氏領、文化九年(一八一二)旗本内藤氏知行地となり廃藩置県に及ぶ(北相馬郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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