江戸後期の歌人。「ぼうとうに」ともいう。本名もと。招月、向陵(こうりょう)と号する。文化(ぶんか)3年9月6日、福岡藩士浦野勝幸の三女として筑前(ちくぜん)早良(さわら)郡谷(福岡市中央区)に生まれる。福岡藩士野村貞貫に嫁し、夫とともに大隈言道(おおくまことみち)に和歌を学ぶ。40歳のおり平尾村向陵(むかいのおか)の山荘(中央区平尾に現存)に隠棲(いんせい)、しばしば歌会を催す。「人影を雪間に遠く見出つつわが訪はるるに定めてぞ待つ」。54歳のとき夫に死別、剃髪(ていはつ)して招月望東禅尼と称す。勤王の志厚く56歳のおり上京、堂上(とうしょう)名家と交わり、大坂滞在中の言道に家集の撰(せん)を請う。帰国後、山荘に志士をかくまい密議の場を提供する。1865年(慶応1)勤王藩士弾圧の際姫島に流され、翌年かつてかくまった高杉晋作(しんさく)の手により脱出、下関へ逃れ三田尻へ移り、慶応(けいおう)3年11月6日病没、62歳。病中作「雲水の流れまどひて花浦の初雪とわれ降りて消ゆなり」。墓は山口県防府(ほうふ)市花浦桑の山と福岡市博多(はかた)区明光寺に現存する。家集『向陵集』のほか、『上京日記』『姫島日記』『防州日記』の著がある。
[穴山 健]
『佐佐木信綱編『野村望東尼全集』全一巻(1958・同書刊行会)』
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江戸末期の女流歌人。〈ぼうとうに〉ともいう。名はもと。筑前黒田藩士浦野勝幸の三女。夫野村貞貫の没後,出家して望東尼と称した。平野国臣,西郷隆盛,高杉晋作らと交わったが捕らえられて玄海の姫島に流された。高杉らに救い出されて周防に移りその地で没した。和歌を大隈言道(おおくまことみち)に学んだ。佐佐木信綱編《野村望東尼全集》がある。〈灯火の影のほのかに見ゆるだに旅ゆく夜半は嬉しかりけり〉(《向陵集》)。
執筆者:竹下 数馬
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1806.9.6~67.11.6
江戸後期の歌人・勤王家。福岡藩士浦野勝幸の三女。名はもと・もと子。号は招月・向陵。郡利貫と離婚後,福岡藩士野村貞貫の後妻となる。夫とともに大隈言道(ことみち)に師事して和歌を学び,大田垣蓮月・千種有文らと交わった。夫と死別後,出家して向陵院招月望東禅尼と称した。勤王の志士と深くかかわり,1865年(慶応元)筑前国姫島(現,福岡県糸島市志摩)に流罪となるが,翌年救出。家集「向陵集」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…水田はなく,かつては女子が対岸の農村へ出稼ぎにいく慣習があったが,現在は若者の多くが島を離れ,夫婦乗船の漁業が行われている。近世は福岡藩の流刑地で,唐津や壱岐を望む南西岸には1865年(慶応1)に配流された幕末の歌人野村望東尼の流島の碑と,復元された獄舎がある。志摩町岐志(きし)から定期船が通じる。…
※「野村望東尼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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