沢宣嘉(読み)サワノブヨシ

デジタル大辞泉 「沢宣嘉」の意味・読み・例文・類語

さわ‐のぶよし〔さは‐〕【沢宣嘉】

[1836~1873]江戸末期の公家三条実美さんじょうさねとみとともに攘夷派として活躍。文久3年(1863)8月18日政変七卿落ちの一人として長州に逃れた。維新後は九州鎮撫総督などを歴任、初代外務卿として明治初年の外交を担当した。

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精選版 日本国語大辞典 「沢宣嘉」の意味・読み・例文・類語

さわ‐のぶよし【沢宣嘉】

公卿政治家。号春川。三条実美らとともに日米修好通商条約勅許反対。攘夷派として活動。文久三年(一八六三)八月一八日の政変によって長州にのがれる。維新後、明治政府の参与、九州鎮撫総督、長崎府知事を歴任。初代外務卿として条約締結に尽力した。天保六~明治六年(一八三五‐七三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「沢宣嘉」の意味・わかりやすい解説

沢宣嘉
さわのぶよし
(1835―1873)

幕末・明治初期の公卿(くぎょう)、政治家。天保(てんぽう)6年12月23日、権中納言(ごんちゅうなごん)姉小路公遂(あねがこうじきんみち)の三男として京都に生まれ、沢為量(ためかず)の嗣(し)となる。1858年(安政5)外交処置に関する勅諚(ちょくじょう)案の改訂を建言する88名の廷臣列参に加わる。以後、三条実美(さんじょうさねとみ)らと尊攘(そんじょう)派の公卿として活躍した。1863年(文久3)八月十八日の政変で七卿(しちきょう)の一人として長州藩に落ちたが、同年10月平野国臣(ひらのくにおみ)らと但馬国(たじまのくに)生野(いくの)(兵庫県朝来(あさご)市)に挙兵して敗れ長州に潜伏した。王政復古とともに位階を復せられ、1868年(明治1)新政府の参与、ついで長崎府知事、外務卿などを歴任した。明治6年9月27日没。

[佐々木克]

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朝日日本歴史人物事典 「沢宣嘉」の解説

沢宣嘉

没年:明治6.9.27(1873)
生年:天保6.12.23(1836.2.9)
幕末維新期の尊攘派の公家,政治家。父は権中納言姉小路公遂,嘉永5(1852)年沢為量の養嗣子となる。号は春川,小春。安政5(1858)年幕府が日米修好通商条約締結の勅許を奏請した際に,その勅裁案の修正を求める88人の廷臣列参に父為量と共に加わった。その後三条実美らと交わり尊攘論を唱える。文久2(1862)年国事御用書記となり,翌年同僚の橋本実麗らと共に関白鷹司輔煕らに攘夷決定等を建言している。しかし,8月18日の政変(1863)により都落ちし,周防国(山口県)三田尻の招賢閣に身を寄せた。その折,筑前藩士平野国臣らの但馬国(兵庫県)生野代官所襲撃計画を聞き,これに同調,挙兵したものの鎮圧され,各地を転々としたのち長州藩に潜伏した。王政復古により剥奪されていた位階を復せられ,明治1(1868)年1月九州鎮撫総督兼外国事務総督に,2月には長崎裁判所総督にそれぞれ任じられ,浦上キリスト教徒総配流などを行った。翌2年外務卿に就任したが,守旧的な尊攘派との関係が疑われ,廃藩置県(1871)に際して免官となる。<参考文献>佐田白茅『沢宣嘉公履歴』

(長井純市)

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改訂新版 世界大百科事典 「沢宣嘉」の意味・わかりやすい解説

沢宣嘉 (さわのぶよし)
生没年:1835-73(天保6-明治6)

幕末期の尊王攘夷派の公卿。姉小路公遂の五男で,のち沢家を相続。幼少のときから三条実美と親交があった。1858年(安政5)3月,幕府の日米修好通商条約勅許の奏請に反対して参内した88人の公卿の中の一人。文久3年(1863)8月18日の政変で実美らとともに京都を追放され,長州へ下った(七卿落)。同年10月,平野国臣らに首領に推され,生野に倒幕の挙兵をしたが(生野の変),敗れて四国へ逃れ,のち長州の阿武郡に潜伏した。維新後は,参与,九州鎮撫総督兼外国事務総督,長崎府知事,外国官知事,外務卿などを歴任。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沢宣嘉」の意味・わかりやすい解説

沢宣嘉
さわのぶよし

[生]天保6(1835).京都
[没]1873.9. 東京
明治初期の外政家。公家姉小路公遂の5男。沢家の養子となり,主水正 (もんどのしょう) と称した。攘夷派公卿の一人として朝廷で活躍し,文久三年八月十八日の政変では長州藩とともに朝譴 (ちょうけん) をこうむり,三条実美ら6人の公卿とともに長州へ落ち延びた (→七卿落 ) 。同年 10月,但馬生野で起った攘夷主義的反乱 (→生野の変 ) の首領に推されたが,鎮圧されて長州へ戻った。王政復古後,復官して新政府参与,九州鎮撫総督,外国事務総督を歴任。慶応4 (1868) 年閏4月長崎府知事。5月外国官知事となり,明治2 (69) 年外務卿として寺島宗則の補佐を得てスペインほか各国との条約を締結した。 1873年駐露公使に任じられたが赴任を前に病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「沢宣嘉」の解説

沢宣嘉 さわ-のぶよし

1836*-1873 幕末の公家。
天保(てんぽう)6年12月23日生まれ。姉小路公遂(あねがこうじ-きんかつ)の次男。清原氏舟橋支流沢為量(ためかず)の養子。三条実美(さねとみ)らとまじわり,尊攘(そんじょう)をとなえる。文久3年の八月十八日の政変で長州にのがれ(七卿落ち),同年平野国臣(くにおみ)らと但馬(たじま)(兵庫県)生野(いくの)で挙兵するが,敗北。のち長崎府知事などをへて,明治2年外務卿となった。明治6年9月27日死去。39歳。通称は主水正,五郎麿。号は春川。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「沢宣嘉」の解説

沢宣嘉
さわのぶよし

1835.12.23~73.9.27

幕末・維新期の公家。姉小路公遂(きんかつ)の三男。1852年(嘉永5)沢為量(ためかず)の養子となる。尊攘派として活躍。63年(文久3)国事寄人(よりうど)。8月18日の政変で失脚,周防国三田尻に下り,官位剥奪。平野国臣らと但馬国生野(いくの)代官所を襲撃して,64年(元治元)長門国萩藩領に逃亡。67年(慶応3)王政復古で復権。参与・九州鎮撫総督・外国事務総督・長崎府知事を歴任。69年(明治2)従三位外務卿,賞典禄800石。73年駐露公使を拝命したが病死。

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旺文社日本史事典 三訂版 「沢宣嘉」の解説

沢宣嘉
さわのぶよし

1835〜73
幕末・維新期の公家
三条実美 (さねとみ) らとともに尊攘派公卿として活躍。八月十八日の政変のとき七卿落ちの一人として長州へのがれ,生野の変の首領となる。1867年の王政復古で復権し,参与・外国官知事・初代外務卿などを歴任した。

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世界大百科事典(旧版)内の沢宣嘉の言及

【生野の変】より

…この動きと,薩摩藩美玉三平,福岡藩平野国臣ら脱藩浪士とが結びつき,しだいに浪士たちが主導権をとって挙兵にもちこんだ。盟主には七卿落ちの一人沢宣嘉(のぶよし)を擁し,長州藩の河上弥市ら奇兵隊士11人も加わり,63年10月12日未明に代官所を占拠した。近隣の豪農層はこれに応じて農兵約2000人を動員するが,幕府の命令で姫路藩,出石藩など諸藩の出兵を聞くや,挙兵指導部内の分裂によって陣が解かれ,13日には沢宣嘉が生野を去った。…

※「沢宣嘉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」