幕末期、尊攘(そんじょう)派の但馬(たじま)国生野(兵庫県朝来(あさご)市)での倒幕挙兵事件。筑前(ちくぜん)の平野国臣(くにおみ)や薩摩(さつま)の美玉三平(みたまさんぺい)(高橋祐次郎)ら浪士は、但馬国の豪農北垣晋太郎(きたがきしんたろう)や大庄屋(おおじょうや)中島太郎兵衛ら地元の地主層に働きかけて、大和(やまと)の天誅組(てんちゅうぐみ)に応じた挙兵計画をたて、1863年(文久3)10月12日、代官所を占拠した。彼らは、「文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変」で長州に逃れた七卿(しちきょう)の一人沢宣嘉(さわのぶよし)を担ぎ、地元農民には3か年の年貢半減を布告し、庄屋層に率いられた約2000の農民を結集した。また、長州を脱した沢には河上弥市(やいち)ら奇兵隊士も従った。挙兵の諭告文には、八月十八日の政変を批判し、「早々馳集(はせあつま)リ、大義ヲ承リ叡慮(えいりょ)ヲ奉シ、奸賊(かんぞく)ヲ退ケ、宸襟(しんきん)ヲ可奉安事」と述べている。代官所からの報で出石(いずし)、姫路(ひめじ)両藩はただちに出兵、近傍諸藩もこれに備えた。13日、沢は本陣を脱出、内部分裂もおこった。農民も離反して逆に彼らはその攻撃を受け、美玉、河上らは戦死または自刃し、平野は就縛、投獄された。変は3日間で終わったが、天誅組の変とともに倒幕挙兵の先駆けとされている。この変における下士、浪士と地主、豪農および一般農民層の動向は、明治維新の性格を暗示するところがある。
[田中 彰]
1863年(文久3)10月,尊攘派が但馬生野に挙兵して生野代官所を占拠した事件。前年より但馬地方では,攘夷を名目として北垣晋太郎,中島太郎兵衛ら豪農を中心とする農兵組織計画が進められていた。この動きと,薩摩藩美玉三平,福岡藩平野国臣ら脱藩浪士とが結びつき,しだいに浪士たちが主導権をとって挙兵にもちこんだ。盟主には七卿落ちの一人沢宣嘉(のぶよし)を擁し,長州藩の河上弥市ら奇兵隊士11人も加わり,63年10月12日未明に代官所を占拠した。近隣の豪農層はこれに応じて農兵約2000人を動員するが,幕府の命令で姫路藩,出石藩など諸藩の出兵を聞くや,挙兵指導部内の分裂によって陣が解かれ,13日には沢宣嘉が生野を去った。なお強硬に陣を張っていた河上弥市らをはじめ,脱出しようとした志士たちも農兵の離反にあい,自分たちが動員した農民に囲まれて殺されたり憤死した例は少なくない。変は3日間で終わったが,しばらく農民の打ちこわしがつづいた。
執筆者:高木 俊輔
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1863年(文久3)尊攘派が但馬国生野(現,兵庫県朝来(あさご)市)で挙兵した事件。大和の天誅組の挙兵に呼応しようとした福岡藩の平野国臣(くにおみ),鹿児島藩の美玉(みたま)三平ら浪士が主導し,中島太郎兵衛・北垣晋太郎ら但馬の豪農が推進してきた農兵計画と結び,七卿落ちの1人沢宣嘉(のぶよし)を総帥に迎えて,10月12日未明に生野代官所を占拠した。挙兵の檄(げき)に応じた近隣の農兵は2000人に及んだ。しかし幕府の命令で出石(いずし)・姫路などの諸藩が出兵すると挙兵側の結束は乱れ,翌13日夜に沢は脱出し,農兵も離反した。残った強硬派の多くは農民に襲われ,尊攘派志士壊滅後,但馬地方には一般農民層の豪農層に対する打ちこわしが続いた。
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…63年(文久3)天誅組の挙兵に呼応して,北垣晋太郎,西村庄兵衛ら多数の村落支配者層に動員された農兵が生野代官所を占拠した。その鎮圧のために豊岡,出石,姫路各藩が出動し,占拠は2日にして解かれたが,生野の変は維新への緒戦となった。その後変遷を経て71年11月には出石県,豊岡県,村岡県,生野県が豊岡県に統合,さらに76年豊岡県は兵庫県に統合された。…
※「生野の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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