百科事典マイペディア 「平野殿荘」の意味・わかりやすい解説
平野殿荘【ひらのどののしょう】
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大和(やまと)国平群(へぐり)郡(奈良県生駒(いこま)郡平群町大字椣原(ひではら)付近)の荘園。総田数9町6反余(1町は約119アール)の谷間の小荘園で、もとは後白河(ごしらかわ)天皇の娘宣陽門院(せんようもんいん)の所領であった。1239年(延応1)、宣陽門院は灌頂(かんじょう)を授けられた賞として仁和(にんな)寺の菩提(ぼだい)院行遍(ぎょうへん)に平野殿荘を寄進し、東寺長者の一人であった行遍は1252年(建長4)に荘務権を留保して東寺供僧住持料(ぐそうじゅうじりょう)に当荘を寄進した。ここに荘務権は仁和寺菩提院、年貢・公事(くじ)は東寺供僧に帰属する関係が成立した。やがて東寺供僧は荘務権獲得に乗り出し、1278年(弘安1)には荘務を実質的に把握するが、荘務権をめぐる領主側の対立や大和国の事実上の守護であった興福寺の介入などに乗じて当荘の荘官・百姓らは「悪党」「強剛名主(みょうしゅ)」などと非難されるような活発な動きをみせて荘支配に抵抗した。なお東寺は、当荘から米約20石、松茸(まつたけ)、瓜(うり)、笋(たけのこ)、菓子、餅(もち)、人夫役などを収取した。
[安田次郎]
『網野善彦著『中世東寺と東寺領荘園』(1978・東京大学出版会)』▽『小泉宜右著『悪党』(教育社歴史新書)』
大和国平群郡(現,奈良県生駒郡平群町)の荘園。田数9町余。米,マツタケ等を貢進した。おそらく貴族邸宅の旧地に立てられた荘であろう。宣陽門院が父後白河法皇より伝領した庁分の荘園群の一つ。1239年(延応1)宣陽門院は灌頂の布施として仁和寺菩提院行遍(ぼだいいんぎようへん)に寄進,行遍はこれを新設の東寺常住供僧の供料荘と定め,以後,1569年(永禄12)までは東寺供僧領(十八口供僧方)の荘園であった。下司・惣追捕使の所職は曾歩曾歩(そふそふ)氏一族が相伝,曾歩曾歩氏は興福寺一乗院御房人でもあったため,興福寺の介入が頻発し,菩提院からの干渉もあって東寺供僧は支配の貫徹に苦しんだが,曾歩曾歩氏の内部対立に乗じ,その一部を悪党として排除し,1291年(正応4)荘務権を掌握した。しかし室町期以後,現地の曾歩曾歩氏の乱妨,守護権に基づく興福寺の段銭賦課,近隣の片岡氏や河内の畠山氏被官の介入により,16世紀前半には東寺領の実質を失った。
執筆者:網野 善彦
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