宣陽門院(読み)せんようもんいん

百科事典マイペディア 「宣陽門院」の意味・わかりやすい解説

宣陽門院【せんようもんいん】

鎌倉前期の女院(にょいん)。後白河(ごしらかわ)法皇の子。母は高階栄子(たかしなえいし)。名は覲子(きんし)。1189年に内親王,准三宮(じゅさんぐう),1191年に院号宣下(いんごうせんげ)。1192年,後白河は死の直前に長講堂(ちょうこうどう)領75ヵ所などを宣陽門院に譲与した。1205年長講堂で出家,性円智(しょうえんち)と称した。源通親(みちちか)と結び,1196年に親幕府派の九条兼実(かねざね)を失脚させたが,のちの九条道家との政争には敗れた。敗北後,宣陽門院は仁和(にんな)寺菩提(ぼだい)院の行遍(ぎょうへん)への信任を強め,1238年庁分の大和平野殿(ひらのどの)荘をはじめ,行遍が供僧(ぐそう)設置を図る東寺に所領を寄進している。1251年に上西門(じょうさいもん)院(後白河准母)領のみを鷹司(たかつかさ)院(近衛家実の女長子,1229年院号宣下)に譲与,ほかは後深草天皇に伝えることとし,宣陽門院領は以後持明院(じみょういん)統に伝領された。伏見殿で没。
→関連項目秋月荘弓削島荘

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改訂新版 世界大百科事典 「宣陽門院」の意味・わかりやすい解説

宣陽門院 (せんようもんいん)
生没年:1181-1252(養和1-建長4)

父は後白河法皇,母はその寵姫高階栄子丹後局)。名は覲子。1189年(文治5)内親王,准三宮,91年(建久2)院号宣下。92年,後白河は死の直前,六条殿やその内に建立した長講堂の所領75ヵ所を女院に譲与する。このうち34ヵ所は庁分とされたが,そのほかに女房別当三位家領5ヵ所,上西門院の譲与した33ヵ所,祈願所領12ヵ所を加えた膨大な荘園群が宣陽門院領である。丹後局はこの所領譲与を推進,実現後に女院庁別当となった源通親と結んで,96年九条兼実を失脚させた。女院は1205年(元久2)長講堂で出家し,性円智といった。後鳥羽上皇はその子雅成親王を女院の猶子とし,女院領の伝領をねらったが,承久の乱により女院領はいったん幕府に没収され,22年(貞応1)に返付された。その後,女院は近衛家実の女長子を養子とし,26年(嘉禄2)入内させて後堀河天皇の中宮にするなど,家実と結んで政局に介入,九条道家と競ったが敗退し,長子は29年(寛喜1)院号宣下,鷹司院と称した。

 女院はすでに16年(建保4)信頼する仁和菩提院の行遍を通じ,別当三位家領阿波国宍咋荘を高野山蓮華乗院に寄進していたが,政争に敗退後,行遍への信任を強め,38年(暦仁1)庁分大和国平野殿荘,翌39年(延応1)別当三位家領伊予国弓削島荘を東寺に,同じく周防国秋穂二嶋荘を菩提院に寄進,東寺に供僧設置をはかる長者行遍を援助した。その後も女院は仏舎利,経論,仏像を西院御影堂に寄せ,42年(仁治3)安芸国新勅旨田,翌年,備前国鳥取荘を寄進,東寺に心を傾けた。一方,所領を鷹司院に譲与し,その一期の後は,46年(寛元4)に即位した後深草天皇に伝えることとしていた女院は,51年(建長3)これを改め,上西門院領のみを鷹司院に譲与,他はすべて後深草に伝えることとし,宣陽門院領は以後,持明院統に伝領された。52年,その大願といわれた東寺供僧の長日行法が開始されるが,まもなく女院は伏見殿で世を去った。
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朝日日本歴史人物事典 「宣陽門院」の解説

宣陽門院

没年:建長4.6.8(1252.7.15)
生年:養和1.10.5(1181.11.13)
鎌倉前・中期の女院。名は覲子。後白河法皇が寵愛した皇女。母は権勢を振るい「執権の女房」といわれた法皇の寵妾丹後局(従二位高階栄子)。文治5(1189)年内親王となり,建久2(1191)年院号宣下。翌3年に死亡した法皇は,亡くなる直前に御所六条殿とそれに付属する持仏堂の長講堂,および75カ所という膨大な荘園群(長講堂領)を女院に譲与した。当時女院を後見していたのは,法皇や後鳥羽天皇の近臣で,丹後局と結び摂関九条兼実を失脚させた源通親であった。正治2(1200)年女院は,後鳥羽の子雅成親王を養子として引き取り養育したが,雅成は承久3(1221)年の承久の乱で鎌倉幕府により但馬に流された。その後,関白近衛家実の娘長子を養女とした。長子は嘉禄2(1226)年わずか9歳で後堀河天皇の中宮となったが,家実の失脚により寛喜1(1229)年院号宣下を受け(鷹司院),以後女院と同居した。女院は,建長4(1252)年伏見殿で没したが,所有の長講堂領は後深草上皇に伝えられ,持明院統の経済的基盤となった。

(秋山喜代子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宣陽門院」の意味・わかりやすい解説

宣陽門院
せんようもんいん

[生]養和1(1181).10.5. 京都
[没]建長4(1252).6.8. 京都
後白河天皇の第6皇女。名は覲子。母は丹後局高階栄子。文治5 (1189) 年内親王,准三宮となり,建久の初め後鳥羽天皇の后に擬せられたが,建久2 (91) 年院号宣下を受けて宣陽門院と称せられ,母丹後局一派勢力の淵源となった。翌年後白河法皇はその死に際し,宣陽門院の将来について後鳥羽天皇に厚く委嘱し,宣陽門院は六条殿長講堂領を譲与された。膨大な所領を源通親を別当として管理し,宮廷内で勢力をふるった。元久2 (1205) 年 25歳で尼となり,法名を円智と称した。その後も丹後局や通親らと政治に関与した。長講堂領は後深草天皇に伝わって両統迭立の原因となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宣陽門院」の意味・わかりやすい解説

宣陽門院
せんようもんいん
(1181―1252)

後白河(ごしらかわ)法皇の皇女。名は覲子。母は丹後局(たんごのつぼね)と称された従(じゅ)二位高階(たかしな)栄子。養和(ようわ)元年10月5日生まれ。1189年(文治5)12月5日内親王となり、同日准三宮(じゅさんぐう)の宣旨を受ける。91年(建久2)6月26日、天皇の生母でなくまた后位についていない内親王として初めて院号を受ける。法皇の寵愛(ちょうあい)を受けて膨大な長講堂(ちょうこうどう)領を譲与され、長講堂のある六条西洞院(にしのとういん)を御所とした。法皇の近臣藤原兼雅(かねまさ)、源通親(みちちか)らが女院司(にょいんじ)を勤め、また源頼朝(よりとも)は95年の上洛(じょうらく)の際、女院の御所を訪問している。1205年(元久2)3月11日落飾、建長(けんちょう)4年6月8日に死去した。

[権平慶子]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宣陽門院」の解説

宣陽門院 せんようもんいん

1181-1252 鎌倉時代,後白河法皇の第6皇女。
養和元年10月5日生まれ。母は高階栄子(たかしなの-えいし)。文治(ぶんじ)5年内親王,准三宮(じゅさんぐう)となり,建久2年院号宣下をうける。翌年法皇の死にさいし長講堂領をゆずられ,この荘園を背景に宮廷内外に勢威をふるった。建長4年6月8日死去。72歳。名は覲子(きんし)。法名は性円智。

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367日誕生日大事典 「宣陽門院」の解説

宣陽門院 (せんようもんいん)

生年月日:1181年10月5日
平安時代後期;鎌倉時代前期の女性。後白河法皇の皇女
1252年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宣陽門院の言及

【長講堂】より

… 長講堂領はその後も増加し,《梅松論》などに180ヵ所と称されて,八条院領とならび皇室領の双璧をなすにいたる。92年3月,後白河法皇は死にさいして,長講堂とその所領を寵姫丹後局所生の宣陽門院覲子内親王にゆずった。宣陽門院はここに移住し,源通親を院別当に任命したが,その所領に目をつけて恩賞にあずかろうとして追従する貴族たちが多かった。…

【東寺】より

…源頼朝は文覚の勧めに従って諸堂,仏像の修理を行わせるなど東寺の復興に力を尽くした。後白河上皇の皇女宣陽門院は深く真言密教に帰依し,その御願として大師堂(西院御影堂)において毎日朝昼夕の三時の勤行を行い,毎月21日には弘法大師御影供が営まれるようになった。これは東寺における中世的信仰の展開を示す画期的なことであるが,そのため女院は大和国平野殿荘をはじめいくつかの荘園を寄進し,供僧組織を確立した。…

【女院】より

…なお郁芳門院は堀河天皇の准母であるが,従来の例とは異なり非妻后の皇后である。さらに鳥羽上皇の皇女子内親王も皇后に冊立されなかったが,准三宮(じゆさんぐう)の宣下をうけ,ついで二条天皇の准母となって1161年(応保1)12月八条院の院号を宣下され,また後白河天皇皇女覲子内親王も妻后でなかったが准后宣下を被り,1191年(建久2)6月宣陽門院号を下されている。なお宣陽門院は八条院とは違い,准母ではなかったが,准后を共通にしている。…

※「宣陽門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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