広橋家(読み)ひろはしけ

改訂新版 世界大百科事典 「広橋家」の意味・わかりやすい解説

広橋家 (ひろはしけ)

藤原氏北家内麻呂の流れ,日野家支流日野兼光の五男権中納言頼資(1182-1236)を始祖とする。しかし頼資は四辻または勘解由(かでの)小路と称し,その子経光や孫の兼仲も勘解由小路を号したが,兼仲の玄孫兼宣に至り広橋を号した。家格は名家。始祖以下4代は中納言を極官としたが,兼仲の孫兼綱が贈左大臣,兼宣,綱光,守光,国光が贈内大臣,また国光の父兼秀と子の兼勝が内大臣に,江戸時代の兼賢,兼(勝)胤,伊光らは准大臣に列せられている。なお兼綱は後円融天皇の外祖父に当たり,兼宣などの子女が後花園天皇以下3代の乳母になっている。始祖頼資以下代々要職にあって朝務をつとめたが,ことに兼勝が江戸時代最初の武家伝奏に補されて公武間の調停に努めたのをはじめ,兼胤は宝暦事件で宮中における神書の進講を排し,伊光は尊号一件で勅旨貫徹をはかり,光成は外交勅許や和宮降嫁などで,いずれも武家伝奏として公武間の調停斡旋に尽力した。光成の子胤保は王政復古大号令に際し公武合体派に属していたため参朝を止められ,まもなく許されたが公職に就かず,その子賢光が1884年華族令の施行により伯爵を授けられた。広橋家は文筆の家として有名で,始祖以下代々日記を残しているが,なかんずく,鎌倉時代の経光の《民経記》,兼仲の《勘仲記》や室町時代の《兼宣卿記》《綱光卿記》《兼顕卿記》,さらに江戸時代の兼胤の《兼胤卿記》や《八槐記》,伊光の《勁槐記》などは,各時代の朝廷動静や公武間の消息をうかがうのに不可欠の史料である。なお江戸時代における同家の家禄は850石である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「広橋家」の意味・わかりやすい解説

広橋家
ひろはしけ

藤原氏北家冬嗣(ふじわらしほっけふゆつぐ)流、日野家支流、堂上家(とうしょうけ)。江戸時代の家格は名家(めいか)。鎌倉時代の日野兼光息、頼資(よりすけ)を始祖とする。鎌倉・南北朝期は「勘解由小路(かでのこうじ)」を称し、7代、兼宣(かねのぶ)から広橋となった。極官(ごくかん)は、当初、中納言、5代兼綱以降、近世にいたるまで、贈左大臣・贈内大臣・内大臣などに任ぜられた。一方、室町時代の綱光ほか、江戸時代では兼勝などが武家伝奏(ぶけてんそう)に任ぜられ、朝廷と幕府の仲介役をつとめた。なお、江戸時代からは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)・知恩寺・清水寺成就院(じょうじゅいん)などの寺社伝奏にも任ぜられた。同家に代々伝来した記録・文書群「広橋家文書」は「広橋家記録」ともよばれ、日記や武家・寺社伝奏関係文書を数多く伝え、朝廷や公武関係の貴重、かつ最重要資料群の一つといえる。鎌倉期の3代兼仲(かねなか)の『勘仲記』、室町期『兼宣記』『綱光記』『綱光記』『兼顕記』、近世期の『兼胤記』『伊光記』などがある。

[佐多芳彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広橋家」の意味・わかりやすい解説

広橋家
ひろはしけ

藤原北家日野流。鎌倉時代初期の頼資を祖とし,7代後の兼宣 (室町時代) より広橋を称する。兼宣,兼郷,綱光,兼顕,守光,兼秀と武家伝奏をつとめた。また同時期歴代天皇の乳母を多く出している。江戸時代は家禄 850石余で,文学を家芸とした。特に朝幕間の調停に活躍し,明治にいたり伯爵を授けられた。

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