( 1 )この語は、明和(一七六四‐七二)になって文献に現われ始めるが、天明(一七八一‐八九)に至り、江戸っ子気質ともいうべきものが典型化された。その特色として、(イ)将軍お膝元の生まれ、(ロ)金ばなれがよい、(ハ)乳母日傘(おんばひがさ)での高級な育ち、(ニ)日本橋のような江戸市街中央部の生粋の生え抜き、(ホ)「いき」と「はり」を本領とする、などが挙げられる(西山松之助「江戸ッ子」)。
( 2 )その一方で、この時期(田沼時代)には、農村からの流入者や他国からの出稼人の激増など、町人社会の構造的変動が進行しつつあり、反体制的な貧民層が増大したことにより、寛政(一七八九‐一八〇一)後半頃から化政期(一八〇四‐三〇)頃になると、むしろ江戸生え抜きの町人社会における精神的支柱として、江戸店(えどだな)や流入民に対する優越感と反発とを主たる契機とした「おらア江戸っ子だ」という自意識へと変容していった。このような強烈な自意識に支えられて、化政期には、江戸町人の言語的特徴も明確になる。
都市江戸で生まれ育った,きっすいの江戸の人の意。根生いの江戸住民であることを自負・強調する際に多く用いられた。それも武士ではなく,おもに町人の場合である。江戸っ子は,物事にこだわらず金ばなれがよく,意地と張りを本領とし正義感が強かったが,反面,けんかっ早くて軽率だといわれた。江戸っ子といった場合,江戸者,江戸生れ,江戸人,江戸衆などというより,もっと根生いの江戸住民であることを強調する言葉としての響きが強い。
このような江戸っ子意識は,近世前期にはない。江戸っ子という言葉の文献上の初見は意外に遅く,管見の範囲では1771年(明和8)の川柳〈江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ〉である。ついで73年(安永2)の川柳〈江戸ッ子の生(うまれ)そこない金をもち〉,同じく〈江戸ッ子にしてはと綱はほめられる〉などがある。このほか洒落本にも,77年の《中洲雀(なかずすずめ)》に江戸っ子がみえ,84年(天明4)の《彙軌本紀序(いきほんぎじよ)》には,〈大金ヲ費スコト小銭ヲ遣フガ若(ごと)シト。是東都子(えどつこ)ノ気情ヲ顕ハス〉とある。すなわち江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代になってはじめて登場してくる。江戸っ子意識とか江戸っ子気質といわれるものも,ほぼこの時期に成立したのであろう。
なぜ田沼時代に江戸っ子意識が成立したのであろうか。それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。1783年の川柳にも〈江戸ッ子の妙(たえ)は身代(しんだい)つぶすなり〉とある。江戸っ子意識には,一流町人としてのかつての栄光に誇りをもつ意地と張りがみなぎっていた。しかもこの時期には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,〈上方者〉への反発は大きかった。そこに金ばなれのよい気風のよさを強調する,江戸っ子意識が成立する背景があった。〈江戸っ子は宵越しの銭を持たねえ〉と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。しかし政治の中心都市であり,人口100万余の大消費都市江戸には,働きさえすれば金のもうけ口はいくらでもあり,食べていくのに事欠かないという,江戸っ子なりの経済的自信もあったのである。
江戸っ子意識が18世紀後半に成立したもう一つの契機は,重い年貢や小作料の収奪に苦しみ,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら〈田舎者〉が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生え,やがてこの面からも江戸っ子意識の成立が促されたといえよう。1787年の洒落本《通言総籬(つうげんそうまがき)》に,〈金の魚虎(しやちほこ)をにらんで,水道の水を産湯に浴て,御膝元に生れ出ては,拝搗(おがみづき)の米を喰て,乳母日傘にて長(ひととなり)(中略),本町の角屋敷をなげて大門を打は,人の心の花にぞありける。江戸っ子の根生骨,万事に渡る日本ばしの真中から〉とある。作者の山東京伝は,江戸っ子の典型を,将軍のお膝元しかも下町の中心街に生まれ育った粋な町人とすることにより,はっきりと〈田舎者〉の野暮に対置している。さらに,一等地にある屋敷を売り払っても吉原を総揚げするという,金ばなれのよさや尻の穴の大きさに江戸っ子の典型をみることにより,明らかに〈上方贅六(ぜいろく)〉のけちとも対置している。
18世紀後半の江戸社会の変質を契機として成立した江戸っ子意識は,やがて19世紀前半の文化・文政期には,さらにひろく江戸の下層社会にまで浸透した。そして〈おらァ江戸っ子だ〉などと,江戸生れをやたらに自慢する者が多くなった。幕末期に西沢一鳳が著した《皇都午睡》には,〈二親共に江戸産れの中に出来たは真の江戸子なれど(中略),二親の内何れぞ江戸の者なれば,相手は皆他国の者也。然れば大方が斑(まだら)といふ者にて,江戸子一歩,斑三歩,残り六歩は皆他国在郷ものゝ寄合の中にて江戸へ出会して出生せしなれば,やはり田舎子也。それが生長すると,おらァ江戸子だ江戸子だといふから,イヤハヤ何とも詞なし〉とある。たとえ本人は江戸生れでも,片親ないしは両親が他国生れの場合は,本当の江戸っ子ではないときめつけている。
明治期に入り江戸は東京となったが,江戸っ子意識は形をかえて再びよみがえった。一つは,東京の山手(やまのて)に他県より来住した官吏や知識人に対して,下町の根生いの住民がもった反感や抵抗感から生まれた,いわば伝統的な町人型の江戸っ子意識である。もう一つは,薩長の藩閥政府に対する旧幕臣らの批判意識であり,明治20-30年代にさかんに江戸っ子の復権が叫ばれた。1899年には《江戸ッ子新聞》が創刊され,主として旧旗本らが健筆をふるい,義俠心に富む江戸っ子魂の再興を主張した。いわば武士型江戸っ子である。しかし江戸っ子意識は,前者の下町庶民の中に東京っ子の代名詞という形で,深くうけつがれていった。
→江戸 →町人
執筆者:竹内 誠
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江戸居住者ないし江戸市民は江戸者と称し、そのなかでも生え抜きの江戸者、生粋(きっすい)の江戸市民を江戸っ子といった。江戸っ子は父母ともに3代続きの市民であることが必要条件とされた。このように絞ると、享保(きょうほう)年間(1716~36)の江戸町人人口50万のうち、江戸っ子はざっと10%にしかならなかった。「江戸っ子」ということばの初見は1771年(明和8)の川柳(せんりゅう)で、「江戸っ子のわらんじをはくらんがしさ」である。1603年(慶長8)江戸開府後、各地から浪人者その他が多数流入して江戸市井に入り込み、各町の草分けとなってから約1世紀半もたつと、蓄財も進み成長した町人ができてきた。そのころになると江戸市民の間に同郷的連帯感が強まってくるし、「江戸っ子」ということばがみられるようになる。またこの語感が彼らの気質にもあったために、寛政(かんせい)(1789~1801)以後の江戸繁栄期に普及した。
この江戸っ子の特徴としてあげられるのは、粋(いき)で勇み肌の気風、さっぱりとした態度、歯切れのよさ、金銭への執着のなさなどがあり、また浅慮でけんかっ早い点もある。「金の鯱鉾(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯(うぶゆ)に浴び、おがみ搗(づ)きの米を食って、日本橋の真ん中で育った金箔(きんぱく)つきの江戸っ子だ……」が、芝居の台詞(せりふ)からきた自賛の弁。将軍家のお膝元(ひざもと)に住むという自負のある反面、排他的な誇りを含み、見栄(みえ)を張り、意地を張るという気質も強い。
江戸の経済構造が利権にからみ、ぬれ手で粟(あわ)のつかみ取りといった新興富裕層を生み、それを浪費、蕩尽(とうじん)する一面が強調され、また江戸の都市構造上頻繁に起こる火事は大商人をおびえさせた。しかし勤労層は災害もあまり苦にならず、労銀もあがり、復興景気の恩恵にあずかれるとなれば、宵越しの金をもつ必要もなかった。大工、左官、鳶(とび)の者、天秤棒(てんびんぼう)を肩にして行商する連中などの、「俺(おれ)たちゃ江戸っ子だ」という意識が強くなり、それを唯一の誇りとして「江戸っ子」を振り回して力みだしたのは文政(ぶんせい)(1818~30)のころからである。
[稲垣史生]
『『三田村鳶魚全集 第7巻』(1975・中央公論社)』▽『斉藤隆三著『江戸のすがた』(1936・雄山閣出版)』▽『石母田俊著『江戸っ子』(1966・桃源社)』▽『西山松之助著『江戸っ子』(1980・吉川弘文館)』
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…これは神田をめぐる商・職の活動ぶりを示す象徴的なものでもあった。〈芝で生まれて神田で育っ〉たのが江戸っ子といわれた。日本橋の商業地区は出店が多く,使用人も上方で雇用され派遣される者が多かった。…
…下町は商工業が盛んで,経済活動の中心であるが,一方,浅草,両国等の盛場も形成されるなど,娯楽・享楽的な面でも栄えていた。そして〈江戸っ子〉ということばに象徴される,反権力性や義理人情を重んじる独特の文化と生活様式が生まれた。このことについて二葉亭四迷は〈下町育ちは山の手の人とは違ふ〉(《平凡》1907)と書いている。…
…幡随院長兵衛や花川戸助六の2代目を称して男だてを重んじ,遊里や芝居見物で荒い金づかいと奇矯な行動をして,市中の話題となった。蔵前本田の髷(まげ)に黒小袖を着け,鮫ざやの脇差をさし,河東節を口ずさみ大仰に歩く様は〈蔵前風〉とよばれ,最も江戸っ子的な風俗とされた。歌舞伎役者や音曲芸人の後援者となり,俳諧等の文芸にも大きな影響を与えたが,寛政改革の風俗取締りによって消滅した。…
…彼らは町内から手当のほか法被(はつぴ),股引(ももひき)等を渡され,平素は土木建築や町内の雑業に従事して生活の保証を得ていた。頭取を中心とする各組の団結は固く,大名火消,定火消との対抗意識も強く,しばしば抗争事件を起こすなどして,その意地・張りなどの独特の気風から,幕末には〈江戸っ子〉の代表の一つとされた。火事【池上 彰彦】。…
※「江戸っ子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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