広谷村(読み)ひろたにむら

日本歴史地名大系 「広谷村」の解説

広谷村
ひろたにむら

[現在地名]養父町広谷

上箇あげ村の南、大屋おおや川の左岸に位置し、南西は十二所じゆうにしよ村。山陰道が通り、広谷町ともいう。中世には軽部かるべ庄内であった。嘉元四年(一三〇六)六月一二日付の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)で、庁分のうち「但馬国三箇庄」のなかに「広谷」とみえる。ただし同目録案には別に軽部庄が記される。もともとは軽部庄とは別の庄園だったのかもしれない。下って文亀二年(一五〇二)二月二一日付の軽部庄公文方田数帳(満福寺文書)のなかに「小 広谷ノ地蔵堂分」とみえる。当地に地蔵があり、その堂田に対して、軽部庄公文がなんらかの権限をもっていた。次いで天正一三年(一五八五)出石いずし(現出石町)城主前野長泰(長康)が、「軽部庄広谷町」に宛て、「一、当町諸(職)、如前々たるへき事、一、諸公事免除事、一、をし(押)買・押売事」の三ヵ条の定書(広谷村文書)を出している。

当地は軽部庄の中心集落で、水陸の交通の要衝にもあたり、戦国時代後期には商人や諸職人が住む町場に発展していたものと思われる。前野長泰はその広谷町に対して諸職を以前のとおりに免許するとともに、諸公事(課役)を免除し、押買・押売を停止して町場として保護を加えた。次いで文禄四年(一五九五)八月八日付で、出石城主小出大和守吉政が同じく軽部庄広谷町に宛てて同文の掟(広谷村文書)を出している。


広谷村
ひろたにむら

[現在地名]府中市広谷町・鵜飼うかい

中須なかず村・高木たかぎ村の北に位置し、石州路が通る。「和名抄」にみえる芦田あしだ広谿ひろたに郷の地とされる。縄文後期―弥生後期の広谷小学校校庭遺跡がある。

備陽六郡志」に「むかし徳円寺の辺より常福寺の辺迄鵜飼村といひ、広谷寺の辺をは広谷村といひけるにや、福山引渡の帳にも広谷村とありて鵜飼村と云事なし、広谷村鵜飼村と二ケ村にてありし事ハ、元和以前の事とみへたり、鵜飼ハ当時ホノ(キ)となり侍り」、「福山志料」に「通証云慶長三年伊勢太夫配札帳に鵜飼村トアリ」、「西備名区」に「鵜飼、其先一村なりし、里諺に云、朝川此郷の向ひにて海に入りし比、鵜を遣ふ者多かりし、其鵜を飼ひし処なりと云ふ、古へ穴の海、是より西御調郡へかけて潮満し事ありしよし、昔日本武尊、穴の悪神を誅し給ひし時、武倍山の御陣所より臨み見給ひし鵜の瑞ありし処なり」とある。つまり慶長三年(一五九八)頃までは、広谷村の地域は広谷村と鵜飼村に分れており、福島正則の時代に合併して広谷村となったとする。


広谷村
ひろたにむら

[現在地名]安心院町広谷

佐田さだ川を挟んで佐田村の南、同川支流広谷川の流域に位置する。南はくちつぼ村。永正九年(一五一二)一一月吉日の宇佐広谷山神旧記(太宰管内志)に「広谷みやう山御神毎年御祭とうにん之事」とあり、一番名主・二番やました・三番津房口つぶさぐち・四番木原きわら・五番石井いしい・六番小田おだの順で頭人を勤めている。なお山神社(現広谷神社)は天元年間(九七八―九八三)の勧請という。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高一九九石余、人数二七、百姓三(うち庄屋一)・名子一・牢人二、牛三・馬一。元禄豊前国高帳では高二一六石余。天保三年(一八三二)の中津藩郷村高帳下書によると新田畑一一石余がみえ、同四年の中津藩郷村高帳下書では高二二〇石余、うち改出高四石余・永荒六三石余。


広谷村
ひろたにむら

[現在地名]岡山市広谷

西庄にししよう村の南、芥子けしご山南麓にあり、東辺をすな川がほぼ南流する。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の西庄に村名があり、寛永備前国絵図では高一九四石余。「備陽記」では田畠三二町九反余、家数四四・人数二五五、枝村として芳岡よしおか新田をあげる。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高三〇七石余、蔵入。田方二八町三反余・畑方四町六反余、家数六八・人数三三四、牛二六、物成二四一石余・麦成五石余、樋一六、橋八、寺藪二(請銀五匁余)、御林一(一二町余)、百姓自林二、小松山二(約五町坊主林・六反薬師山)、魚川運上銀八六匁。


広谷村
ひろたにむら

[現在地名]高岡市西広谷にしひろたに

広谷川上流に沿い、さかい村の西上流に位置。北は山川やまかわ村、北西勝木原のでわら村。元和五年(一六一九)の家高新帳では赤丸組に属して広谷とみえ、役家数一七。正保郷帳では山川村と併記して高付され、高四六〇石余、田方一四町二反余・畑方一六町四反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には内島広谷うちじまひろたに村とみえ、草高二五三石・免四ツ七歩、小物成は山役一四一匁。延宝八年(一六八〇)の川崩れ検地引高八二石(三箇国高物成帳)。同四年の役家数二一、肝煎は忠兵衛(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)


広谷村
ひろたにむら

[現在地名]福光町広谷

才川七さいかわしち村の西にあり、北西を糸谷いとだに川が北東へ流れる。元和五年(一六一九)の家高新帳に広谷とみえ、広瀬組に属し、役家数一二。正保郷帳では高五一六石余、田方三三町八反余・畑方六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五四三石、免五ツ四歩、小物成は山役八六匁・蝋役二匁・栗役五分(出来)であった(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には大西先組に属し、家数三二(うち頭振二)・人数一六〇(うち頭振八)、馬七(「大西先組覚帳」福光町立図書館蔵)。文政八年(一八二五)時および天保一〇年(一八三九)以後は太美組に属した。


広谷村
ひろたにむら

[現在地名]西区神出町広谷かんでちようひろたに

明石郡北端の雌岡めつこ山北西麓にあり、南は神出北村、北は美嚢みなぎ興治おきはる新田(現三木市)。天和三年(一六八三)明石藩の開墾策によって開発が始まり、貞享元年(一六八四)に終わったという(播州明石記録)元禄郷帳に村名がみえ、高六九石余。天保郷帳では高七一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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