府中城跡・桟原城跡
ふちゆうじようあと・さじきばらじようあと
江戸時代の宗氏の対馬藩政庁跡。万治三年(一六六〇)より延宝六年(一六七八)にかけて造築された桟原の府城を家中ではお屋形とよぶが、対外的には府中城と称される。また中世以来の金石城(金石屋形)に対して桟原城・桟原屋形ともいう。明治二年(一八六九)府中から厳原と改められるに伴い厳原藩と公称する。
〔府中城築城〕
万治二年の冬府中を空前の大火が襲い、一千七一八戸が焼失、幕府から救恤米一万石が与えられたが、この大被害は銀山開発の成功および朝鮮貿易の隆盛なども合せて、宗家当主の義真にとって新城下建設の好機であったと考えられる。府中の北東部の袖振山から後山に続く国府界平の丘陵を掘切って砥石淵から府中に流れていた本川を阿須浦に通じ(阿須川)、丘陵をならして築城した。阿須川は桟原城の堀の役割をもつ。屋形の詳細な図面が宗家文庫(対馬歴史民俗資料館蔵)に保存され、五棟の平屋が乙字形にならび、南の山手に浦屋形を配した公家風の造りで、天守閣はない。戦闘に備えた城というよりは、屋形の名称がふさわしい。
屋形の築城に伴い城下の町割が新たに実施され、現在の厳原の街並の原型となる。西の浜から桟原の城門まで直通の大通りすなわち馬場筋を造成し、これに縦横の路を整備し、本川の改修とともに架橋を増やし、石垣塀の屋敷造りが進められた。桟原の屋形の造営は、朝鮮通信使の行列を整えるためで、西の浜の船着場から城の大手口まで、通常の築城には例のない開放的な道路が通じる。これは外敵に備えるのではなく、外国の使節を迎えて平和な親善の儀礼を誇示するために当城と主要町割が実施されたものと考えられる。幕府の素早い援助も、こうした背景があったからであろう。朝鮮通信使の行列は総勢五〇〇余名であるが、その威儀を示すために造られた馬場筋通が、平野部の少ない対馬にあっていかに過ぎたものであるか、現在の厳原町の状況からみてもわかる。
〔宗家と所領〕
中世以来の島主である宗氏は義智の代に、天正一五年(一五八七)九州の平定がなった豊臣秀吉に筑前箱崎(現福岡市東区)で謁見、対馬一円を安堵されるとともに、朝鮮国王の入朝を促す交渉を命じられた。宗氏は朝鮮との戦争は極力回避したかったが、文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵では先鋒を任じられたばかりか、対馬は渡海する諸兵団の通過地となった。同四年こうした諸経費や、朝鮮貿易の途絶によって財政に苦しむ義智に対して薩摩国出水郡内に一万石が与えられた(宗氏家譜)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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