弓裔(読み)きゅうえい(英語表記)Kung-ye

精選版 日本国語大辞典 「弓裔」の意味・読み・例文・類語

きゅう‐えい【弓裔】

  1. 朝鮮新羅末期の武将。初め梁吉の部将となり、九〇一年に自立して王と称し、国号摩震と定める。朝鮮半島の中部一帯を支配したが、暴政のために人望を失い、部下王建に倒された。九一八年没。

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改訂新版 世界大百科事典 「弓裔」の意味・わかりやすい解説

弓裔 (きゅうえい)
Kung-ye
生没年:?-918

朝鮮,新羅末の群雄中の一人,後高句麗の創始者。新羅王の庶子と伝えられる。地方で僧となり善宗と号していたが,各地で軍人民衆反乱がおこると,891年にまず竹州(竹山)の反乱軍の頭目箕萱に身を投じ,翌年には北原(原州)の頭目梁吉に投じた。梁吉の部下となった弓裔は江原道・京畿道・黄海道一帯を攻略し,やがて梁吉を打倒して松岳(開城)を根拠地として自立し,901年,高句麗の復興と新羅の打倒を唱えて後高句麗を建国した。904年には正式に国号を立てて摩震とし,年号を武泰と定めた。このころ,国事を総理する広評省をはじめ諸官府を整備し,正匡以下の9等の官号を設定して,国家としての体裁をととのえたらしい。905年には鉄円(鉄原)に遷都し,911年には国号を泰封と改めた。のち三国鼎立後の弓裔は,軍事面ではその部将であり協力者でもあった王建にもっぱら依存しており,専制君主として暴君に転落すると,結局,王建すなわち高麗太祖に取って代わられてしまう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弓裔」の意味・わかりやすい解説

弓裔
きゅうえい
Kung Ye

[生]?
[没]景明王2(918)
朝鮮,新羅末の武将,泰封国王。新羅の憲安王の庶子で出家し,箕萱,梁吉らのもとに属したが,孝恭王2 (898) 年松岳 (現開城) に自立し,同5年王を自称,国号を後高句麗と定め,高句麗再興を目指した。同8年国号を摩震とし,新羅の官制を取入れ,国家の体制を整えて,鉄円 (現鉄原) に遷都。同 15年には国号を泰封,年号を水徳万歳とし,その勢力は中部朝鮮一帯に及んだが,みずからを弥勒仏と称し,部下を虐殺するなどの尊大狂暴さに信を失い,ついに臣下の王建 (→太祖) に討たれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「弓裔」の意味・わかりやすい解説

弓裔
きゅうえい
(?―918)

朝鮮、新羅(しらぎ)末、地方豪族中の有力者。新羅王族の出身と称し、僧侶(そうりょ)生活ののち、891年箕萱(きけん)軍に投じ、翌年梁吉(りょうきつ)の将となって朝鮮半島中部一帯を勢力下に入れ、901年松岳(開城)で王を自称した。904年国号を摩震(ましん)とし、翌年鉄円(鉄原)に遷都、911年国号を泰封(たいふう)と変え、新羅、後百済(ごひゃくさい)と対立した。晩年は人心を失って部将の王建(高麗(こうらい)の太祖)に追放され、江原道平康で現地住民に殺害された。

[吉田光男]

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世界大百科事典(旧版)内の弓裔の言及

【王建】より

…祖先についてははっきりしないが,松岳(開城)地方に一定の勢力基盤をもち,海上貿易にも関係していた家系らしい。新羅末期,反乱軍の一首領弓裔(きゆうえい)に帰順してその部下となった。弓裔の部将として早くから軍事的才能を発揮したが,特に水軍活動において目ざましく,後三国期に弓裔の後高句麗国が西南海の海上権を掌握できたのは,もっぱら彼の功績による。…

※「弓裔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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