日本歴史地名大系 「弥勒寺村」の解説 弥勒寺村みろくじむら 神奈川県:藤沢市弥勒寺村[現在地名]藤沢市弥勒寺・弥勒寺一―二丁目・同四丁目・鶴巻(つるまき)・川名(かわな)一丁目・村岡東(むらおかひがし)一丁目・大鋸(だいぎり)一丁目柏尾(かしお)川が境(さかい)川に合流する右岸付近に位置し、鎌倉郡に属した。北側は丘陵地、南側は低地。村名は村内にある弥勒寺に由来し、中世は村岡郷に属し、寛永(一六二四―四四)の頃に分村したいわゆる村岡郷五ヵ村の一つ。正保国絵図に「三六寺村」とある。幕府直轄領から享保一三年(一七二八)下野烏山藩領となり、幕末期には彦根・熊本・佐倉など諸藩の預所となるが、慶応四年(一八六八)幕府直轄領となる。 弥勒寺村みろくじむら 宮城県:登米郡中田町弥勒寺村[現在地名]中田町上沼(うわぬま)北上川右岸にあり、対岸は西郡(にしこおり)村(現東和町)、南は桜場(さくらば)村、西と北は上沼村に接する。寛永六年(一六二九)の白石宗貞宛の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に「一拾七貫九百九拾八文 袋中之内みろく寺村 一壱貫弐百六拾六文 同所新田起目」とある。正保郷帳に田二〇貫四九一文・畑一四貫三五一文とあり、ほかに同所新田九貫三九六文があり、水損と注記される。「安永風土記」によれば、田三四貫三四六文・畑一五貫八六四文で、寺池(てらいけ)(現登米町)の伊達式部の一円知行で、人頭五九人、家数五九、男女都合三五一、馬三九とあり、鮭鱒漁かっこ船一、作場通用かっこ船一九があった。 弥勒寺村みろくじむら 神奈川県:足柄上郡松田町弥勒寺村[現在地名]松田町寄(やどろぎ)東に弥勒寺山があり、西境を中津(なかつ)川が流れ、河土(かわと)川を西南で合し、南は萱沼(かやぬま)村、北は中山(なかやま)村と接する。「風土記稿」は「吾妻鏡」建久三年(一一九二)八月九日条に記す北条政子産気加持の誦経を行った寺の一つ「弥勒寺波多野」を当村の弥勒堂とし、村名はそれによるという。近世は小田原藩領。現寄地区七ヵ村の総称東山家(ひがしやまが)に含まれ、正保国絵図に村名をみる。寛永六年(一六二九)東山家七ヵ村の入会であった弥勒寺山へ、新たに入会を願出た神山(こうやま)村ほか六ヵ村との間で争論が起こったが、新規加入は否決されている(延宝六年「返答書」虫沢区有文書)。 弥勒寺村みろくじむら 愛知県:西春日井郡西春町弥勒寺村[現在地名]西春町弥勒寺東を鹿田(しかた)村(現師勝町)、南と西を西之保(にしのほ)村、北を徳重(とくしげ)村と接する。村名は東光(とうこう)寺の旧称弥勒寺による。この村の付近一帯には条里制の遺構が確認されており、弥勒寺の地名は文和二年(一三五三)の尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案(醍醐寺文書)に「弥勒寺 三貫九百五十五文 狩俣大輔殿」、応永四年(一三九七)の尾張国目代光守注進状(同文書)に「三貫九百五十五文 弥勒寺 同(若君)御領」とみえ、これ以降の中世史料にもみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by