精選版 日本国語大辞典 「在日朝鮮人」の意味・読み・例文・類語
ざいにち‐ちょうせんじん‥テウセンジン【在日朝鮮人】
- 〘 名詞 〙 第二次世界大戦前の日本の植民地支配の間に、朝鮮から日本に移住したり、または労働力として強制連行されたりしたが、解放後も大韓民国籍または朝鮮民主主義人民共和国籍で日本に在住している朝鮮人。
日本帝国主義の朝鮮植民地支配の結果,日本への渡航・移住を余儀なくされたか,あるいは日中戦争,太平洋戦争中労働力として国民徴用令などで強制連行され,戦後は米・ソによる南北朝鮮の分割占領,朝鮮戦争などによって日本に在留せざるをえなくなった者およびその子孫をいう。
在日朝鮮人は1911年末には約2500人であったが,日本の土地略奪政策の遂行による農民の零落と,日本資本の労働力需要の増大によって1920年には3万人を超えた。三・一独立運動後の1919年4月,当局は〈朝鮮人旅行取締令〉を公布し日本への渡航を抑制した。しかし,20年代に入り日本渡航者はさらに増加し,30年末には在留人口は30万人に上った。日本の中国侵略は37年には本格化し,国家総動員法(1938),国民徴用令(1939)が公布され,朝鮮においても軍需物資,労働力の動員が大々的に行われるようになった。国民徴用令は朝鮮では〈募集〉形式,〈官斡旋〉形式,〈徴用〉形式の3段階で適用され,そのいずれも国家権力による強制に変りはなく,その結果,45年8月までに炭鉱,金属鉱山,軍需工場,土建業,港湾運輸などに約150万人が連行され,強制労働に使役された。在留人口は39年の約90万人から45年には約250万人に達した。
→強制連行
八・一五解放前の在日朝鮮人の職業は道路,鉄道,河川,発電所工事などの土木労働者が大部分を占め,工場労働者も見習職工,雑役などの未熟練労働者が主であった。そのうえ,賃金は民族的差別によって日本人の約半額であり,また住宅も都会では借家も容易に得られず,場末や川縁にあるバラック建飯場あるいは工場地帯での貧民長屋に住み,不安定で,貧しい生活を余儀なくされた。在日朝鮮人は1923年の関東大震災時の朝鮮人虐殺事件など官憲の弾圧によって多くの犠牲者を出し,また日本人に同化させるための,言語,風習,歴史などの民族的なものを奪う皇民化政策を強要され,それに反対するものは多くの迫害を受けた。
在日朝鮮人はこのような多くの困難な条件のもとでも,その生活と人権,民族的なものを守るために闘わざるをえなかった。1919年には東京留学生を中心として二・八独立宣言書を発表し,三・一独立運動の先鞭をつけ,20年代に入って北星会,一月会などの思想団体をはじめ在日本朝鮮労働総同盟,在日本朝鮮青年同盟,新幹会の支会などを組織して民族運動を展開した。30年代に入りコミンテルンの指示のもと,これらの民族的な組織を解消し,日本の労働団体その他の組織に加盟して闘った。1935年ころから45年8月までは労働者,学生などの各分野で,民族的・共産主義的グループがつくられ,合法,非合法などの諸形態で,暴力的労務管理と搾取に反対し民族的抑圧からの解放のために闘った。一部には相愛会,協和会などの反民族的な御用団体に加盟して,日本の朝鮮支配,民族的抑圧に協力した者もいた。
45年8月15日の解放を歓喜のもとに迎えた在日朝鮮人にとってまず何よりも故国への帰国と生活権を守ることが当面の主な課題であった。そのために解放直後から各地で数多くの自主的な団体がつくられたが,10月にはそれらを結集して,朝鮮建設への献身的努力,世界平和の恒久維持,在留同胞の生活安定,帰国同胞の便宜と秩序,日本国民との互譲友誼,目的達成のための大同団結などの内容の綱領をもつ在日本朝鮮人連盟(朝連)を組織した。朝連はまもなく日本共産党の指導方針のもとに左翼的な色彩をもつようになった。他方,民族主義的見解をもつ青年たちは別個に朝鮮建国促進青年同盟(建青)を結成し,さらに翌46年1月,朝連から離脱した保守的な人々は民族運動家朴烈を団長として新朝鮮建設同盟(建同)を結成した。同年10月建同は建青を合わせて反共的色彩を明確にした在日本朝鮮居留民団(のち在日本大韓民国居留民団。1994年,名称から〈居留〉を外した。略称民団)へ改組し,朝連に対抗した。48年には南朝鮮に大韓民国(韓国),北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国(共和国)が樹立され,民団は韓国を,朝連は共和国を祖国としその政策に従って運動を展開した(1949年,朝連傘下約45万,民団傘下約15万)。
1949年9月GHQの指令のもとに日本政府は団体等規正令を朝連に適用,反民主主義的暴力団体として解散させ,その財産を接収するとともに幹部を公職追放にした。翌年6月朝鮮戦争が起こり,旧朝連傘下の人々は51年1月,朝連の後継団体としての在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を組織し,非合法的には祖国防衛委員会(祖防委),祖防隊をつくって反米・反李承晩・反吉田茂政権・反再軍備のスローガンのもとにアメリカの朝鮮侵略に反対し,祖国の統一独立,民族権利の擁護のために闘った。しかし民戦ならびに祖防隊は日本共産党の指導方針によって直接的に日本の革命運動に参加し日本の内政に干渉する側面があって,共和国に直結しようとする指導方針との間に路線論争が起きた。その後は,国際間における平和五原則に依拠して55年5月民戦を解散して在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を組織した。朝鮮総連は日本共産党の指導方針からはなれて,共和国の海外公民としての立場を堅持し,南北朝鮮の平和的統一をめざし,民族的権利を守る運動を展開した。一方,民団は朝鮮戦争に約700人の志願兵を送り,韓国の国是遵守を明らかにするとともに,日韓会談を支持し日韓条約の締結促進に努めた。
解放後日本に残留した朝鮮人の大部分は産業労働の職場から閉め出され,一部の人たちは敗戦後の混乱期にやむをえず闇商人として生計をたてた。経済統制がきびしくなるとそれらの生活手段も失い,パチンコなどの遊技業,屑鉄商,飲食業などの零細企業を営む者もあったが,大部分は不安定で臨時的な日雇労働者,自由労働者として苦しい生活をつづけた。74年度の外国人登録上の職業調査は表の通りである。
在日朝鮮人は朝鮮総連,民団傘下に各商工会,信用組合などの商工団体をつくって生活向上のために努力しているが,職業選択,融資面などでの民族的差別によって基幹産業経営の基礎を築くことに多くの隘路がある。在日朝鮮人は納税の義務を負いながらも社会福祉,社会保障制度が適用されず,また国民健康保険,国民年金も受けられなかったが,日韓条約締結(1965),日本の国連難民条約への加入(1981)によってそれらの適用が実現されるようになったものの,まだ全面的でなく多くの問題点が残っている。また,在日朝鮮人は52年4月サンフランシスコ講和条約発効後からは出入国管理令(1951年11月,現在は〈出入国管理及び難民認定法〉),外国人登録法(1952年4月)によってその歴史的特殊条件が無視され,一般外国人の一律的な適用をうけ差別的に処遇されている。日韓条約の〈在日韓国人の法的地位協定〉によって,韓国籍をもつものには協定永住権が,また82年1月からは韓国籍,朝鮮籍をとわず,戦前からの居住者に限り特例永住権が認められたが,その子孫に対する永住権の規定はまだ不確定であり,その背景には日本への同化政策が根底にあると思われる。
在日朝鮮人は朝鮮新報社,韓国新聞社,統一日報社などをはじめ学友書房,朝鮮問題研究所などの言論出版機関をもち,また体育会,芸術団その他多くの文化・芸術サークル団体を組織して活動を行っている。
執筆者:朴 慶 植
在日朝鮮人は,植民地時代に民族学校を設けることを禁止されていたから,解放されるや日本各地に民族学校を設立(1947年10月,小・中学校548校,生徒数4万9700名),その子弟に朝鮮語と朝鮮の歴史・文化を教えた。しかし,朝鮮戦争の直前(1949年10月),日本政府によって閉鎖され,在校生は日本人学校への転校を強制された。同化教育の復活であり,以後,在日朝鮮人子弟の多数が日本人学校に在籍するように流れが変わった。講和条約締結を転機に,50年代半ばより民族学校は再建されたが,祖国の分断を反映して,朝鮮人学校(小学校から朝鮮大学校まで,1996年現在141校,2万人弱)と韓国学園(4校,約2000人)に分かれた。このような分岐や日本生まれの3世・4世に世代交替した事情に影響されて,残る大多数(9万)は日本人学校に就学する。民族学校は在日朝鮮人が日本定住の気持を固めるにつれて(1970年代以降),カリキュラムに日本文化を増やすと同時に,インターハイへの参加(1993年)など日本人学校の全国行事に積極的に参加するようになった。また,卒業生が日本の大学への進学を望み,それに応じ,公・私立大学250校が受験を認めるにいたった(1997年現在,国立大学は未だ不認可)。他方,日本人学校在校生にとっては,本名を名のって,朝鮮人として生きることを励ます日本人教師の実践が欠かせない。
執筆者:小沢 有作
日本の地で朝鮮語あるいは日本語を用いて創作を行った朝鮮人の文学活動は,解放前の留学生たちにはじまる。《親睦会会報》(1896)から《学之光》(1915-30)まで6種・100余冊が出され,李光洙,崔南善,田栄沢ら留学生たちは国権回復・旧習打破等を目的とした朝鮮語の小説,詩,エッセー等を発表した。文芸誌《創造》(1919),《海外文学》(1927)等の刊行も留学生の手によるものであった。金素雲は《朝鮮民謡集》をはじめ朝鮮童謡,現代詩紹介に活躍した。日本のプロレタリア文学運動の中で活動した作家に鄭然圭,韓植,金煕明,詩人に金竜済,白鉄,姜文錫(きようぶんしやく)らがいる。その運動が解体しはじめたころに張赫宙(ちようかくちゆう)は〈餓鬼道〉(1932)で日本文壇に登場,植民地下朝鮮農民の現実を骨太な筆致で描いて好評を得(のちに皇民化運動に荷担する),また金史良は〈光の中に〉が,李殷直の〈ながれ〉とともに1939年に第10回芥川賞候補となり,作家活動に入った(太平洋戦争開始時に検挙され釈放後ただちに帰国)。この時期に〈在日〉朝鮮人の文学は本格的に始まったといえよう。1940-42年にかけて《芸術科》(日大芸術科発行)に拠った金達寿(1919-97)ら若い世代が登場し,強いられた日本語を用いて反日本帝国主義の文学的いとなみを可能にするという,在日朝鮮人文学者の多様な戦いの下地を意識的に切りひらきはじめた。その試みの真の開花は解放後に実現した。解放直後に《民主朝鮮》《朝鮮文芸》等が出され,金達寿,李殷直,朴元俊,張斗植,尹紫遠,詩人の姜舜,許南麒らがめざましい活動を始めた。金達寿は《玄海灘》(1954)で解放前の朝鮮人インテリの民族的自覚を描いて日本統治の非人間性を剔出(てきしゆつ)した。また張斗植の《ある在日朝鮮人の記録》(1966)が示すように,在日朝鮮人は苦難にみちた生活史をみずからの手で記録しはじめた。60年代にかけて李殷直の《濁流》,金石範(1925- )の《鴉の死》(そのテーマは《火山島》にひきつがれる),金達寿の《太白山脈》等,民族分断の根源への追究が目立った。60年代末から70年代にかけて李恢成,金鶴泳,高史明,金泰生,鄭承博,詩人の金時鐘らが登場した。李恢成(1935- )は72年に《砧をうつ女》で第66回芥川賞を受賞し,在日二世の民族的主体の確立と祖国統一運動への参与をテーマに活動を続け,それらは《見果てぬ夢》(1979)として結実した。在日朝鮮人文学は作者それぞれの視点から〈在日〉を生きる姿勢と意味,祖国や同胞組織との関わり合い等が問題にされつつ今日に至っている。
執筆者:任 展 慧
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…台湾,朝鮮をはじめ日本の植民地は人口密度が高く,千島・南樺太(敗戦時28万),中国東北(満州)への農業移民(同27万)を除けば日本人労働力の移住は微々たるもので,政治的支配関係を背景とする軍人,官吏,会社員,中小経営者層が移住の主力であるから,狭義の移民とは異なる。朝鮮などは逆に日本や南樺太への労働力供給地になり,在外邦人に匹敵する在日朝鮮人を生みだした。 19世紀末は日本人移民の試行期で,ハワイのほかオセアニア方面にも移住したが,いずれも定着できず,前述のハワイの元年組も失敗に終わった。…
…外国に住む自国の子弟のために,本国の政府あるいは教育関係団体が,母国語で母国の文化を教える目的で,その地に設置した学校をいう。ふつう送りだす側と迎える側の両面をもつ。日本の場合,送りだす側としては海外日本人学校を諸外国に特設し,迎える側としては在日外国人学校の設立を認めている。以下,後者について記すと,その歴史は明治の開国とともに始まる。ダーム・ド・サンモール校(1872,横浜)をはしりにして,アメリカン・スクール(1902,東京)など,欧米人子弟を対象に英語で教える学校が設立され,これらが日本の外国人学校の主流となった。…
…その後,日中戦争の拡大下で,朝鮮人を動員するため南次郎朝鮮総督は内鮮一体をスローガンとして掲げ,皇民化政策が強化され,その典型が40年の創氏改名であった。 こうした朝鮮における施策を背景に,日本国内でも在日朝鮮人の急激な増加に対応し,各種の内鮮融和運動が展開された。なかでも,1921年に内務官僚の支持によって設立された相愛会や,関東大震災後に設立された知事を会長にする大阪府内鮮協和会,兵庫県・神奈川県の内鮮協会は官主導の内鮮融和団体で,在日朝鮮人労働運動と対立しながら活動した。…
…さらに基本的人権としての民族教育は〈人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向する〉と同時に,〈諸国民の間及び人種的,種族的又は宗教的集団の間の理解,寛容及び友好を促進する〉ものでなければならないとされている(同規約第13条)。戦後日本の民族教育では在日朝鮮人の教育が重要な問題となっている。1910年の〈日韓併合〉以後,朝鮮では〈皇民化〉教育が強行され,また労働力として日本へ強制連行された人も多かった。…
※「在日朝鮮人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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