改訂新版 世界大百科事典 「勤労動員」の意味・わかりやすい解説
勤労動員 (きんろうどういん)
戦時体制下において,公権力の法律,命令によって,本人の意志にかかわらず強制的に労働力を動員すること。日中戦争開始後,軍需生産の拡大にともなう労働力不足が一般化し,政府は国家総動員法にもとづいて次々と労働力確保のための統制を実施していった。初期の労働力不足は,軍需産業における技術者,熟練工の不足としてあらわれた。したがって労働統制といっても,技能者を軍需産業に優先的に確保するためのものであった。しかし戦局の拡大は労働力不足をいっそう深刻なものとし,1939年には国民職業能力申告令が出され,国民の職業能力が登録された。その範囲は,はじめ一定の技能者に限定されていたが,しだいに未経験の可動労働者まで含まれるようになった。さらに40年に入ると,労働統制の範囲は一般労働者にまで拡大した。青少年雇入制限令(1940年2月),従業者移動防止令(同年11月)が制定され,14歳以上60歳未満の男子の雇入れには国民職業紹介所長の認可が必要となった。さらに39年に制定された国民徴用令も,40年に改正され,徴用の範囲は拡張され,政府はほとんどすべての労働者を強制的に徴用できるようになった。しかしこのような強制的な労働力確保では,労働者の勤労意欲をわき立たせることはできなかった。
ドイツやイタリアでは,労働の公的性格を強調して増産の不可欠なことを労働者に浸透させると同時に,一定の労働条件の改善,スポーツなどの余暇施設の設置で労働者の勤労意欲をかりたてた。それに対し日本では,〈事業一家〉,労資一体の組織として産業報国会が設立され,〈勤労精神の昂揚〉がはかられた(産業報国運動)。同会は官製的な性格が強く,所期の成果をあげることはできなかった。したがって,政府による〈上から〉の強制的な勤労動員がつねに前面に出ざるをえなかった。政府は,一方で兵力の増大に対応しつつ,他方では食糧増産のための農村労働力も確保しなければならず,労働力をうまく配分できなかった。太平洋戦争の開戦のころには,中小商工業者の転廃業問題を含めて労働力不足はさらに深刻となった。41年12月,労務需給調整令が公布され,単なる労働者の移動制限から,重点的な労働者配置政策がとられた。また同月から労働力の量的確保のために,女子や小学校卒業生を無報酬で工場等に配置する国民勤労報国協力令が実施された。以後戦局の悪化にともない,〈国民皆動体制の整備強化〉〈皇国勤労観の確立〉などともっぱら精神主義を強調し,国民の徴用範囲はその極限にまで拡大された。それでも労働力は絶対的に不足したため,政府は朝鮮人,中国人を強制的に連行し(強制連行),炭鉱や鉱山等に移入させた。39年から45年までの間に約75万人の朝鮮人,中国人が労働力として日本の各地に強制的に配置された。こうして戦争末期には,学徒勤労動員を含めて,まさに〈根こそぎ動員〉の状況が現出したのである。
→国家総動員
執筆者:芳井 研一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報