花岡事件(読み)ハナオカジケン

デジタル大辞泉 「花岡事件」の意味・読み・例文・類語

はなおか‐じけん〔はなをか‐〕【花岡事件】

昭和20年(1945)6月、秋田県花岡鉱山鹿島組出張所で、強制連行されていた数百名の中国人が集団脱走した事件。捕らえられ、拷問により100名以上が虐殺された。

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共同通信ニュース用語解説 「花岡事件」の解説

花岡事件

第2次大戦末期の1945年6月30日、秋田県花岡町(現大館市)の花岡鉱山で、鹿島組(現鹿島)花岡出張所に強制連行された中国人が、劣悪な労働環境や虐待に耐えかねて一斉に蜂起したが鎮圧された。事件での死者を含め、同鉱山へ強制連行後に死亡した中国人は400人以上とされる。生存者らは鹿島に損害賠償を求めて提訴。東京高裁で2000年、鹿島が5億円を拠出して被害救済の基金を設立することなどで和解が成立した。09年に事件を後世に伝える記念館が大館市に建設された。

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百科事典マイペディア 「花岡事件」の意味・わかりやすい解説

花岡事件【はなおかじけん】

太平洋戦争末期の中国人労働者の反乱蜂起とその鎮圧事件。1945年6月30日夜,秋田県花岡町(現,大館市)の鹿島組花岡出張所で発生。986人の中国人が強制連行で同出張所の中山寮に収容され,花岡鉱山拡張準備のため花岡川の水路変更工事にあたっていた。重労働,食糧不足,虐待などで死者が相次ぎ,中国人労働者が蜂起したが憲兵隊,在郷軍人団らによって鎮圧された。首謀者と目された12人が懲役刑などの判決を受け,日本側の責任者は東京裁判にかけられ絞首刑以下の厳刑を科されたが,のち減刑されて全員釈放。なお中国人の死者は1944年8月から1945年11月までで418人にのぼった。〔戦後補償訴訟〕 1984年に事件生存者が鹿島との交渉を始め,1990年には鹿島が謝罪して被害者との共同声明を出したが,1995年に被害者11人が代表となり,謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴。地裁では原告の請求は却下されたが,上級審の東京高裁で2000年11月に和解が成立し,鹿島は被害者全員(986人)への慰霊などの念の表明として,中国紅十字会に5億円の基金を寄託することになった。
→関連項目鹿島建設[株]

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改訂新版 世界大百科事典 「花岡事件」の意味・わかりやすい解説

花岡事件 (はなおかじけん)

太平洋戦争末期の中国人強制連行労働者の騒乱・鎮圧事件。秋田県の花岡鉱山(藤田組系の銅山。戦時統制で当時は帝国鉱業開発が経営)は軍の増産要求にこたえ,坑道拡張の前提として川の瀬替え工事を鹿島組(現,鹿島)に発注した。現場には1000人近い中国人が投入され,非人道的な状況で苛烈な強制労働に従事し,多くの死傷者を出した。

 これに対しついに反抗にふみきった労働者は1945年6月30日(一説には7月1日),日本人係員ら5人を殺害のうえ逃亡した。警察当局を中心に,在郷軍人団,鹿島組や鉱山会社の警備隊・勇義隊など民間の組織が鎮定に出動し,逃亡労働者は間もなく全員逮捕・拘禁された。その過程で残忍な暴行や拷問が加えられ,そのための死者だけでも100人以上におよぶ。首謀者とされた12人は9月無期懲役以下の判決をうけた(のち釈放)。10月アメリカ軍は鹿島組花岡出張所関係者を戦犯容疑で逮捕,48年3月絞首刑以下の重刑が宣告された(のち減刑される)。なお,花岡事件訴訟では鹿島が企業責任を認め謝罪した〈共同発表〉(1990年7月)を再確認し,2000年11月中国赤十字会に5億円を信託し被連行者全員(986人)とその遺族について全面解決を図る和解が成立した。
強制連行
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「花岡事件」の意味・わかりやすい解説

花岡事件
はなおかじけん

第2次世界大戦末期,花岡鉱山で起きた大規模な中国人労働者の蜂起事件。 1945年6月 30日,国策により中国から強制連行され鹿島組 (現鹿島建設) の花岡出張所に収容されていた 986人の中国人労働者が,過酷な労働や虐待による死者の続出に耐えかね,補導員らを殺傷して逃亡する事件が勃発した。まもなく憲兵隊により鎮圧され,中国人指導者は有罪判決,鹿島組現場責任者らも終戦後,戦犯容疑で重刑を宣告 (のち減刑) された。事件後の拷問も含め,中国人労働者のうち,45年 12月までに 400人以上が死亡したとされる。この事件をめぐり,元労働者の生存者と遺族の計 11人が,当時の使用者鹿島建設を相手に損害賠償を求めて訴訟を起し,第一審は原告請求棄却,原告側は東京高等裁判所に控訴,同裁判所が和解案を提示していたが,2000年 11月 29日,企業の法的責任は問わず,事件の受難者への慰霊と支援などを目的に企業の拠出金で「花岡平和友好基金」 (中国紅十字会に信託) を設けることで双方合意,和解が成立した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「花岡事件」の解説

花岡事件
はなおかじけん

1945年(昭和20)6月,秋田県花岡鉱山の鹿島組(現,鹿島)出張所でおきた中国人の大量殺害事件。花岡出張所には986人の中国人が強制連行されており,苛酷な労働条件のもとで死傷者が続出していた。彼らは6月30日に抵抗の行動をおこしたが失敗し,逃亡した者は警官・消防団員・在郷軍人らに捕らえられ,約100人が殺害された。89年(平成元)に事件の被害者と遺族が鹿島建設に対して謝罪と賠償を請求し,日本の戦争責任が改めて問われるきっかけとなった。

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