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彭城百川 さかき ひゃくせん

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美術人名辞典の解説

彭城百川

江戸中期の画家。名古屋生。名は真淵、百川は号、別号に蓬洲・八仙堂。初め狩野流の画を学ぶが、支那古画を研究して我国南画の先覚者となる。傍ら俳諧を好み、昇角の俳号がある。宝暦2年(1752)歿、56才。

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デジタル大辞泉の解説

さかき‐ひゃくせん【彭城百川】

[1697~1752]江戸中期の文人画家。尾張の人。名は真淵、百川は字(あざな)。号、蓬洲・八仙堂。彭(ほう)百川ともよばれる。日本における南画の先駆者の一人。書画の鑑識や俳諧でも活躍。

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百科事典マイペディアの解説

彭城百川【さかきひゃくせん】

江戸時代の南画家。名は真淵,百川は号。名古屋生れ。初め俳人として知られたが,のち京都に上って元明画の研究を中心に画道に主力を注いだ。様式の幅が広く不安定な作風に終始したが,日本南画の開拓者としての功績は大きい。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

彭城百川 さかき-ひゃくせん

1697-1752 江戸時代中期の画家。
元禄(げんろく)10年10月28日生まれ。京都にでて中国の元(げん)・明(みん)の南宗画をまなび,祇園南海(ぎおん-なんかい)とともに日本文人画の開拓者のひとりとなる。作品に「春秋江山図」など。のち法橋(ほっきょう)。俳人としても知られた。宝暦2年8月25日死去。56歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。本姓は榊原。名は真淵。通称は土佐屋平八郎。別号に蓬洲,八仙堂など。著作に「元明画人考」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

彭城百川

没年:宝暦2.8.25(1752.10.2)
生年:元禄10.10.28(1697.12.11)
江戸中期の南画家。名は真淵,字は百川。蓬州,八僊(仙)堂などと号した。通称土佐屋平八郎。八僊堂と称する名古屋の薬種商の家に生まれたとも同家に婿養子として入ったともいわれる。はじめ俳句を志して各務支考に師事し,松角,次いで昇角と号した。享保11(1726)年には自身で挿絵を入れた選集『本朝八僊集』を刊行したが,こののち,師の支考との間に亀裂を生じている。32歳のころから京都を拠点として北陸や長崎に遊び,48歳ごろからは絵を職業とする生活に入り,元文年間(1736~41)には法橋位を得るに至った。絵は当時舶載の中国画や画譜類を学びながら習得していったらしいが,その作風は「紅白梅図屏風」(個人蔵),「春秋江山図屏風」(東京国立博物館蔵)のような元明の画に倣ったものや,代表作である奈良多武峯の慈門院(陶原家)障壁画群のような南宗画と北宗画を折衷したようなものから俳画や和画などまで様々なスタイルをみせている。画俳両道に進むものとして与謝蕪村に影響を与え,南画の先駆者のひとりとされる。また,中国の書に自らの見聞を加えた中国画家人名事典『元明画人考』(1751)を刊行している。

(星野鈴)

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世界大百科事典 第2版の解説

さかきひゃくせん【彭城百川】

1698‐1753(元禄11‐宝暦3)
江戸中期に活躍した初期文人画家の一人。通称土佐屋平八郎,名は真淵。号は蓬洲,僊観,八僊,八仙堂など。彭(ほう)百川ともいう。名古屋の薬種商八仙堂に生まれ,俳諧に傾倒するが,京都で狩野派を学ぶなど絵画に関心を示し,特に元・明画を学んで南宗画の法を体得する。日本の初期文人画家に共通して,その様式は多様性をもち,俳画の遺作も多い。絵のほかに俳書も多く,《元明画人考》《元明清書画人名録》なども著し,中国画への知識を示す。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

彭城百川
さかきひゃくせん

[生]元禄10(1697).10. 名古屋
[没]宝暦2(1752).8.25. 京都
江戸時代中期の南画家。薬種商八仙堂に生れる。名は真淵,字は百川,号は八仙堂,蓬洲など。松角 (のちに昇角) の名で俳人としても知られる。のち京都に出て職業画家としての生活をおくる。法橋に叙せられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

彭城百川
さかきひゃくせん
(1697―1752)

江戸中期の南画家。名は真淵(しんえん)。字(あざな)は百川。蓬洲(ほうしゅう)、八仙と号する。通称は土佐屋平八郎といい、名古屋の薬種商八仙堂に生まれる。25歳のころより松角(のち昇角と改める)と号して俳句を志し、各務(かがみ)支考門下の俳人たちと交わる。1728年(享保13)にはすでに京に上っており、このころより絵画に力を注ぐ。画(え)の師は不明であるが、当時舶載された中国画などには詳しく、『元明(げんみん)画人考』『元明清(しん)書画人名録』の著作がある。百川の画の様式は一定せず、『蓮花(れんか)図』に代表されるような和画系統のもの、『春秋江山図屏風(びょうぶ)』(東京国立博物館)のような元明画に倣ったものなどさまざまだが、後者が中心をなしており、祇園南海(ぎおんなんかい)、柳沢淇園(きえん)らとともに南画の先駆者としての存在意義は大きく、とくに、(南)画、俳句の両道に志した与謝蕪村(よさぶそん)に影響を与えた。また大画面制作にも特色を発揮し、47年(延享4)、多武峰(とうのみね)談山神社の慈門院(現陶原(すはら)家)に一群の障壁画(国の重要文化財)を制作している。38年(元文3)ごろ法橋(ほっきょう)に叙せられている。[星野 鈴]

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世界大百科事典内の彭城百川の言及

【文人画】より

…その意味では士大夫的性格をもった文人と考えてもなんら矛盾するところはなく,この日本における文人の系譜は,浦上玉堂,田能村竹田,渡辺崋山,といった画家達の血の中にも脈々と流れていたと考えられる。他方,同じく初期文人画家の一人である彭城百川(さかきひやくせん)や,日本における文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村などは,その生れや環境からして士大夫的といえるものではなかった。たとえば百川は名古屋の薬種商の生れであるし,大雅は京都銀座役人中村家の手代の子であった可能性が大きく,蕪村は大坂の淀川堤に近い毛馬村の地主の息子であったようである。…

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