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柳沢淇園 やなぎさわ きえん

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美術人名辞典の解説

柳沢淇園

江戸中期の詩人・文人画家。大和郡山藩士。日本南画の先駆者の一人。名は里恭、字を公美、別号に竹渓・玉桂等。元・明の古跡を模写し、狩野派を学び、のち長崎派の彩色した精密な写生風の画法を修める。また指墨による墨竹もよくした。多才な風流人として知られる。宝暦8年(1758)歿、55才。

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デジタル大辞泉の解説

やなぎさわ‐きえん〔やなぎさはキヱン〕【柳沢淇園】

[1704~1758]江戸中期の文人・画家。字(あざな)は公美(こうび)。柳里恭(りゅうりきょう)ともよばれる。大和郡山藩の重臣。儒仏・医学・書画など16芸に通じたといわれる。特に絵画は精緻(せいち)で豊麗な色彩の花鳥画のほか指頭画(しとうが)にもすぐれ、南画の先駆者の一人とされる。著「ひとりね」など。

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百科事典マイペディアの解説

柳沢淇園【やなぎさわきえん】

江戸中期の儒者,画家。大和郡山藩主柳沢吉保の家老曾根保格の子として生まれ,のち柳沢の姓を許された。名は里恭(さととも),字は公美,通称権太夫。柳里恭(りゅうりきょう)とも。
→関連項目雲萍雑志木村蒹葭堂

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

柳沢淇園 やなぎさわ-きえん

1704-1758 江戸時代中期の画家。
宝永元年生まれ。大和(奈良県)郡山(こおりやま)藩の重臣。文人画の先駆者のひとりで,彩色の花鳥画と指先でえがく墨竹画にすぐれた。さらに詩文,和歌,三味線など,多芸多才の風流人として知られた。宝暦8年9月5日死去。55歳。本姓は曾禰。名は里恭(さととも)。字(あざな)は公美。別名に柳里恭(りゅう-りきょう)。随筆に「ひとりね」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

柳沢淇園

没年:宝暦8.9.5(1758.10.6)
生年:宝永1(1704)
江戸中期の武士で,南画の先駆者。名は貞貴,のち里恭。字は公美。玉桂,淇園などと号した。甲斐(山梨県)甲府藩の家老曾禰保格の次男として江戸に生まれる。少・青年期,藩主柳沢吉里の信愛厚く,柳沢姓を許され,次いで一字を拝領,里恭と名乗り,柳里恭と称した。享保9(1724)年,藩の転封に従い大和郡山へ移住。13年,「不行跡未熟」として家督相続を取り放されたが程なく許され,禄2500石を食み,晩年には大寄合を務めた。多芸多才で,なかでも画に優れる。画は幼年,狩野派を学ぶも飽き足らず,中国画や画史・画譜類で自習し,また吉田秀雪に師事して長崎派の画を修得。そのため「関帝図」(東京国立博物館蔵),「籃中挟蘭図」(個人蔵)のような濃彩の人物・花果図が多い。他に墨竹や指墨もあるが,南宗画様式の山水画は現存しない。しかし池大雅の才能を見抜き指導するなど,南画史上重要な役割を演じた。随筆『ひとりね』は22歳ごろの執筆。

(武田光一)

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世界大百科事典 第2版の解説

やなぎさわきえん【柳沢淇園】

1704‐58(宝永1‐宝暦8)
江戸中期の画家,儒者。日本文人画の先駆者。柳沢吉保の家老の家に生まれた。名は里恭,字は公美,通称権太夫,別号に竹渓など。柳里恭(りゆうりきよう)の名でも知られる。生来多能多芸で書画のほか,詩文,篆刻,音楽,医学,仏典などにも通じた。絵は一時期狩野派に学んだが,やがて狩野派に批判的になり,長崎派の画家渡辺秀石の門人吉田秀雪(英元章)に師事した。長崎派の影響を強く受け,細密な写生と濃厚な賦彩による作品を数多く残している。

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大辞林 第三版の解説

やなぎさわきえん【柳沢淇園】

1704~1758) 江戸中期の文人・画家。通称は権太夫、字あざなは公美こうび。柳里恭りゆうりきようと称す。大和郡山藩の重臣。荻生徂徠おぎゆうそらいに師事。朱子学・仏典・医学・音楽・書画・篆刻てんこくなどに広く通じ、特に南画に秀でる。著「ひとりね」など。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

柳沢淇園
やなぎさわきえん

[生]宝永1(1704).江戸
[没]宝暦8(1758).9.5. 大和,郡山
江戸時代中期の南画家。父は柳沢吉保の家老。名は貞貴,のち柳沢の称号とともに里恭の名を藩主より賜わる。字は公美,号は淇園,玉桂など。柳里恭 (りゅうりきょう) ともいう。多芸多才の人であったが,絵は初め狩野派の画法を学び,さらに長崎派の英元章 (吉田秀雪) に師事。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

柳沢淇園
やなぎさわきえん
(1704―1758)

江戸中期の南画家。名は初め貞貴、のちに里恭(さととも)、字(あざな)は公美(こうび)、淇園、玉桂などと号した。また柳里恭(りゅうりきょう)ともよばれる。大和(やまと)(奈良県)郡山(こおりやま)藩の家老の家に生まれ、自身も重臣であった。風流才子で諸芸に通じたが、なかでも絵を得意とし、初め狩野(かのう)派を学ぶもそれに飽き足らず、長崎派の吉田秀雪につき精緻(せいち)で濃厚な彩色の花鳥画をよくする一方、墨竹にも優れていた。ことに指頭画(しとうが)による墨竹に巧みで、この技法は池大雅(いけのたいが)に受け継がれている。祇園南海(ぎおんなんかい)、彭城百川(さかきひゃくせん)とともに南画の先駆者的役割を果たした。『指墨竹図』『彩竹図』『西湖図』などの作品がある。著書に『ひとりね』がある。[星野 鈴]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の柳沢淇園の言及

【雲萍雑志】より

…江戸後期の随筆。柳沢淇園(きえん)著。1843年(天保14)刊。…

【ひとりね】より

…文武二道にたけ,諸芸に通じ,人の師たるに足れる芸十六に及ぶといわれた風流人,大和郡山柳沢藩家老柳沢淇園(きえん)の随筆。近世を通じて刊行されることなく,写本をもって行われた。…

【文人画】より

…文人画における最も基本的な条件に思いを致すとき,日本の文人画家達も明確に中国文人画の系譜の中に位置づけることができるのである。 日本における初期文人画の代表者であった祇園南海は,紀州藩藩校の教授を務め,儒学の教育・指導につとめたり,藩政のための忠告者であって,儒員としての地位にいた人であり,柳沢淇園は大和郡山藩の為政者として家老の地位につくべき人であった。南海,淇園いずれも儒教的教養をもち,為政者たるべき地位に深くかかわっている人達であったといえる。…

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