江戸時代の文人画家。日本における文人画の祖といわれる。紀州藩の藩医祇園順庵の長子として江戸に生まれる。名は瑜,字は伯玉。南海は号。湘雲,信天翁などの別号がある。1689年(元禄2)14歳で初めて木下順庵に謁した際,七言律詩を賦して木門諸子を驚かす。また藩主に詩を献じて褒美を拝領するなど年少のころから詩文に豊かな才能を示し木下門下の逸材といわれた。97年22歳で藩の儒官となるが,3年後,不行跡によって知行を召し上げられ,城下を追われて片田舎に謫居(たつきよ)を命ぜられる。約10年間困窮生活を送るが,1710年(宝永7)赦されて翌年儒官に復した。おりから来日した朝鮮使節の接待役として持ち前の詩才を発揮する。13年(正徳3)藩校が創設され,その長となる。書画にもその才能を発揮したが,当時はまだ文人画の学習期にあり,南海は《八種画譜》や《芥子園画伝》などの版本を通じて元・明文人画の知識や技法を習得し,日本の文人画を開拓した。柳沢淇園やのちに日本文人画を大成する池大雅も南海の指導を受けるなど,後世に与えた影響は大きい。《詩学逢源》はじめ多数の著書がある。
執筆者:佐々木 丞平
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江戸中期の漢詩人、文人画家。名は瑜。字(あざな)は伯玉。紀伊国(和歌山県)の人。紀州藩医の子に生まれ、木下順庵(じゅんあん)に学んだ。新井白石(はくせき)、室鳩巣(むろきゅうそう)らと同門である。早くから詩才を現し、18歳のとき2回にわたって一夜に100首の詩を詠じた。22歳で藩の儒官に登用されたが、放蕩無頼(ほうとうぶらい)のゆえをもって、25歳から35歳まで和歌山城下を追放されたことがある。詩風は雅趣雅言を重んじて塵俗(じんぞく)の気を排する。絵もよくしてわが国文人画の先駆者の一人となり、芸術、趣味に個性を生かした生涯は、服部南郭(はっとりなんかく)、柳沢淇園(きえん)らと並んで文人的生活態度の確立者と評される。著書に、前述の一夜百詠の詩を収めた『南海先生詩稿』、詩文集『南海先生集』、詩論『詩学逢原(ほうげん)』などがある。
[日野龍夫]
『中村幸彦校注『日本古典文学大系94 近世文学論集』(1966・岩波書店)』
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…文人画における最も基本的な条件に思いを致すとき,日本の文人画家達も明確に中国文人画の系譜の中に位置づけることができるのである。 日本における初期文人画の代表者であった祇園南海は,紀州藩藩校の教授を務め,儒学の教育・指導につとめたり,藩政のための忠告者であって,儒員としての地位にいた人であり,柳沢淇園は大和郡山藩の為政者として家老の地位につくべき人であった。南海,淇園いずれも儒教的教養をもち,為政者たるべき地位に深くかかわっている人達であったといえる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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