後藤=ヨッフェ会談(読み)ごとう=ヨッフェかいだん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「後藤=ヨッフェ会談」の解説

後藤=ヨッフェ会談
ごとう=ヨッフェかいだん

1923年,東京市長後藤新平が,首相加藤友三郎内諾を得て,ソ連の A.ヨッフェを東京に招待し,2~6月,日ソ国交樹立のために行なった私的会談。政府,外務省内ではヨッフェ招待を時期尚早とする見方が強かったが,この会談を端緒に政府レベルの交渉が開かれることになり,25年1月の芳沢=カラハン協定で両国の国交が樹立した。

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百科事典マイペディア「後藤=ヨッフェ会談」の解説

後藤=ヨッフェ会談【ごとうヨッフェかいだん】

1923年後藤新平の斡旋(あっせん)で日本代表川上俊彦とソビエト中央執行委員ヨッフェとの間に行われた日ソ国交回復の非公式予備交渉。ヨッフェは日本が樺太(からふと)(サハリン)から撤兵することを契機に正式交渉を開始するとして帰国。翌年再開された芳沢謙吉とカラハンの正式交渉の礎石となる。
→関連項目日ソ基本条約

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世界大百科事典内の後藤=ヨッフェ会談の言及

【日ソ基本条約】より

…このころアメリカ石油資本が北樺太油田開発の着手を試みて日本海軍を強く刺激し,また,極東ソ連領漁業もソビエト政府が支配して極東共和国合併以前の漁業条約を無効とするなどの政策を推進した。これらの懸案打開のため,後藤新平は中国にいたソビエト全権代表A.A.ヨッフェを日本に招いて私的会談(後藤=ヨッフェ会談)をもち(1923年3月7日~6月16日),さらにこれを駐ポーランド公使川上俊彦との予備交渉に引きついだ(1923年6月28日~7月31日)。これらの交渉では北樺太問題,尼港事件問題,宣伝禁止問題が論議され,のちの日ソ間交渉の地ならしの役を果たした。…

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