御木徳一(読み)みきとくはる

日本大百科全書(ニッポニカ) 「御木徳一」の意味・わかりやすい解説

御木徳一
みきとくはる
(1871―1938)

新宗教「ひとのみち教団」の教祖。明治4年1月27日、愛媛県松山市に生まれ、8歳で禅門に入り、仏道修行に精進(しょうじん)し、22歳で郷里松山の安楽寺住職となった。ついで1902年(明治35)恩師福山大道の後を継いで安城寺住職となったが、安城寺は借金の多い貧乏寺で、経済的に窮迫していた。寺の財政再建に失敗した徳一還俗(げんぞく)し、大阪に転居した。そこで徳光(とくみつ)教教祖金田徳光(かねだとくみつ)(1863―1919)に会い、その教えを受け修行に励み、ついに悟道に入り、1924年(大正13)「ひとのみち教団」を創始した。しかし、1937年(昭和12)軍部弾圧により教団を解散させられ、獄中で病にかかり、1938年7月6日帰幽(きゆう)した。諡(おくりな)は天水海日顕㫗命(あまみずうみひあらわるひこのみこと)。なお、「ひとのみち教団」は1946年再建し、PL教団となり、1974年パーフェクト リバティー教団に改称した。

[川島通資 2018年6月19日]

『御木徳近著『教祖伝 わが父』(1970・芸術生活社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「御木徳一」の解説

御木 徳一
ミキ トクハル

大正・昭和期の宗教家 ひとのみち教団初代教祖。



生年
明治4年1月27日(1871年)

没年
昭和13(1938)年7月6日

出生地
伊予国(愛媛県)

本名
御木 長次郎

学歴〔年〕
巽小中退

経歴
明治44年大阪に出て神道徳光教に入ったが、大正13年に長男の徳近とともに人道徳光教を創立、神による“お振替”の贖罪教理を唱え、人の道の実行を強調した。昭和6年“ひとのみち教団”と改称、不安な世相のなかで全国に広まり、信者は60万に達した。しかし天照大神に関する教義が政府から不敬とみなされ、12年治安維持法違反で教団は解散。戦後、徳近によってPL教団と改称して再出発した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「御木徳一」の解説

御木徳一 みき-とくはる

1871-1938 明治-昭和時代前期の宗教家。
明治4年1月27日生まれ。大阪で金田徳光(とくみつ)の徳光教にはいる。徳光の没後,御岳教(おんたけきょう)人道徳光教会を設立。昭和6年ひとのみち教団と改称,12年不敬罪で起訴された。昭和13年7月6日裁判途中で死去。68歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「御木徳一」の解説

御木 徳一 (みき とくはる)

生年月日:1871年1月27日
大正時代;昭和時代の宗教家
1938年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の御木徳一の言及

【PL教団】より

…御木徳一(とくはる)(1871‐1938)と御木徳近父子の開教した〈ひとのみち〉教団(1924年人道徳光教として創立,31年改称)が,1937年に解散させられたため,46年徳近がPL教団の名称で再建した新宗教。72年〈パーフェクト・リバティー〉,74年〈パーフェクト・リバティー教団〉と改称。…

※「御木徳一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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