デジタル大辞泉
「徳川家達」の意味・読み・例文・類語
とくがわ‐いえさと〔トクがはいへさと〕【徳川家達】
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徳川 家達
トクガワ イエサト
- 肩書
- 貴院議長,徳川家第16代当主,日本赤十字社社長,IOC委員
- 別名
- 幼名=徳川 亀之助(トクガワ カメノスケ)
- 生年月日
- 文久3年7月11日(1863年)
- 出生地
- 江戸
- 経歴
- 徳川家第16代当主。明治元年第15代徳川慶喜の大政奉還に伴い宗家を継ぎ家達と改名。同年駿河府中城主として70万石を賜封され、2年版籍奉還で静岡藩知事、3年廃藩置県で藩知事を退いた。10〜15年英国に留学。17年公爵、23年貴族院議員、36〜昭和8年貴族院議長。その間大正3年組閣の内命を辞退。11年第一次大戦後のワシントン軍縮会議に全権委員で出席。昭和11〜14年IOC委員を務め、アジア初の東京五輪招致に尽力したが、幻の大会に終った。また16代様として日本赤十字社長、恩賜財団済生会、東京慈恵会、日米協会各会長を務めた。妻泰子は近衛文麿の伯母。
- 没年月日
- 昭和15年6月5日
- 家族
- 父=徳川 慶頼(田安家当主) 長男=徳川 家正(外交官) 弟=徳川 達孝(田安家当主)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
徳川 家達
トクガワ イエサト
明治〜昭和期の公爵 徳川家第16代当主;貴院議長;日本赤十字社社長;IOC委員。
- 生年
- 文久3年7月11日(1863年)
- 没年
- 昭和15(1940)年6月5日
- 出生地
- 江戸
- 別名
- 幼名=徳川 亀之助(トクガワ カメノスケ)
- 経歴
- 徳川家第16代当主。明治元年第15代徳川慶喜の大政奉還に伴い宗家を継ぎ家達と改名。同年駿河府中城主として70万石を賜封され、2年版籍奉還で静岡藩知事、3年廃藩置県で藩知事を退いた。10〜15年英国に留学。17年公爵、23年貴族院議員、36〜昭和8年貴族院議長。その間大正3年組閣の内命を辞退。11年第一次大戦後のワシントン軍縮会議に全権委員で出席。昭和11〜14年IOC委員を務め、アジア初の東京五輪招致に尽力したが、幻の大会に終った。また16代様として日本赤十字社長、恩賜財団済生会、東京慈恵会、日米協会各会長を務めた。妻泰子は近衛文麿の伯母。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
徳川家達
とくがわいえさと
(1863―1940)
旧徳川将軍家第16代当主、政治家。初め亀之助(かめのすけ)と称す。田安(たやす)家(徳川慶頼(よしより))の三男として生まれ、1865年(慶応1)家を継いだ。1868年(慶応4)前将軍慶喜(よしのぶ)が死一等を免ぜられたのち、新政府から徳川宗家(そうけ)の相続を命ぜられ、家達と改名、5月に駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河(愛知県)70万石に転じ、翌年、版籍奉還により静岡藩知事となった。1877年(明治10)から1882年までイギリス留学、1884年公爵となり、1890年貴族院議員、1903年(明治36)同議長につき以後30年間同職にあった。その間、1914年(大正3)には、組閣の内命があったが辞退した。日本赤十字社社長、済生会会長などの名誉職に任じ、ワシントン軍縮会議の全権委員も務めた。
[井上勝生]
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徳川家達
とくがわいえさと
[生]文久3(1863).7.11. 江戸
[没]1940.6.5. 東京
徳川将軍家の 16代当主,静岡藩主,政治家。田安慶頼の三男。母は高木氏。幼名は亀之助。 15代将軍徳川慶喜が明治1 (1868) 年隠退謹慎したのち,田安家から入って徳川宗家を相続。世間では,「十六代様」と呼ばれた。静岡の駿河府中城主として 70万石を領し,明治2 (1869) 年の版籍奉還後,静岡藩知事。 1877年から 1882年までイギリスに留学。 1890年貴族院開設に伴い公爵議員となり,1903年から 1933年まで貴族院議長。その間,1921年 12月ワシントン会議の全権委員。日本赤十字社社長,恩賜財団済生会会長,華族会館館長などを務め内外に活躍した。
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徳川家達 (とくがわいえさと)
生没年:1863-1940(文久3-昭和15)
徳川家第16代当主,政治家。田安慶頼の三男。明治維新後,徳川宗家を相続,1869年(明治2)版籍奉還により静岡藩知事となる。廃藩置県後,77年イギリスに留学,82年帰国し,84年公爵となる。90年議会開設とともに貴族院議員となり,1903年から33年まで議長を務める。その間,14年山本権兵衛内閣辞職の際,組閣の内命があったが固辞。日本赤十字社社長,済生会会長などを歴任,ワシントン会議にも列席した。
執筆者:伊藤 之雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
徳川家達
没年:昭和15.6.5(1940)
生年:文久3.7.11(1863.8.24)
明治大正期の政治家。江戸出身。御三卿のひとつ田安家の出。号は静岳。明治1(1868)年,徳川慶喜の謹慎,水戸退去にともない徳川宗家を継ぐ。2年静岡藩知事。10年より5年にわたって英国に留学。17年公爵。23年貴族院議員。36年,近衛篤麿のあとをうけて第4代貴族院議長に就任,以後昭和8(1933)年に辞任するまで,ほぼ30年間同職にあった。この間,華族会館館長,恩賜財団済生会会長,明治神宮奉賛会会長などに就任。大正3(1914)年4月,山本内閣倒壊を受けて組閣の大命が降ったが,拝辞している。相撲通としても有名であった。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
徳川家達 とくがわ-いえさと
1863-1940 明治-昭和時代前期の華族,政治家。
文久3年7月11日生まれ。田安慶頼(よしより)の3男。元治(げんじ)2年三卿(さんきょう)の田安家の7代となる。慶応4年徳川慶喜(よしのぶ)の跡をついで徳川宗家16代となり,駿河(するが)(静岡県)府中藩主。70万石。明治17年公爵。23年貴族院議員となり,36年から30年間にわたり貴族院議長。大正10年ワシントン会議全権委員。日本赤十字社社長,日米協会会長などを歴任。昭和15年6月5日死去。78歳。幼名は亀之助。
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徳川家達
とくがわいえさと
1863.7.11~1940.6.5
明治~昭和前期の政治家。徳川(田安)慶頼(よしより)の三男。幼名亀之助。徳川慶喜(よしのぶ)の養嗣子。1868年(明治元)静岡70万石をつぎ,版籍奉還後は静岡藩知事。77年イギリス留学,84年公爵,1903年以来貴族院議長5回。第1次山本内閣の辞職で後継首班に推されたが固辞。ワシントン会議では全権委員を務め,日本赤十字社社長,済生会・協調会の会長など多彩な活躍をした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
徳川家達
とくがわいえさと
1863〜1940
明治〜昭和前期の政治家
田安慶頼 (よしより) の3男。1868年,15代将軍慶喜 (よしのぶ) の隠退謹慎のあと田安家から入って徳川宗家を相続。静岡藩知事を経て,'90年貴族院議員となり,1903〜33年同院議長をつとめる。その間ワシントン会議全権委員,日本赤十字社社長などを歴任した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
徳川 家達 (とくがわ いえさと)
生年月日:1863年7月11日
明治時代-昭和時代の華族;公爵;政治家。貴族院議員;済生会会長;日本赤十字社長
1940年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の徳川家達の言及
【江戸開城】より
…4月4日,勅使橋本実梁(さねやな)と柳原前光が入城して朝旨を伝え,4月11日,江戸城は開城し,21日,大総督宮,各先鋒総督および参謀が入城し,接収を完了した。徳川家は,田安亀之助(徳川家達(いえさと))が相続,駿河70万石に移封され,慶喜も同地へ移った。7月17日,天皇の詔書により江戸は東京と改称され,10月,江戸城も東京城と改められた。…
※「徳川家達」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」