親族の者が死亡したとき、一定の期間忌(い)み慎みの生活をすること。忌(き)は穢(けがれ)を忌(い)むこと。服は喪服(そうふく)の意。服忌(ぶっき)ともいい、古くは服紀とも記した。古典では、父母の喪(も)を「重服(じゅうぶく)」、その他の喪を「軽服(きょうぶく)」といった。『日本書紀』天武(てんむ)天皇7年(678)10月の条には、すでに重服の記事がみえる。『養老律令(ようろうりつりょう)』「喪葬令」によると、服の期間について、天皇、父母、夫、本主は1年(12か月)、祖父母、養父母は5か月、曽祖父母(そうそふぼ)、外祖父母、伯叔父姑(はくしゅくふこ)、妻、兄弟姉妹、夫の父母、嫡子(ちゃくし)は3か月、さらに血縁が遠くなるにしたがって、1か月、7日と短期間となっている。これがその後ずっと適用されたが、江戸時代になると、幕府は林信篤(のぶあつ)(鳳岡(ほうこう))に命じて服忌令をつくらせ、1684年(貞享1)2月にそれが定められた。のち1693年(元禄6)12月21日改正、さらに1736年(元文1)9月15日に追加された。忌中の慣例は、門戸を閉じ、魚肉を食せず、酒を飲まず、髭髪(しはつ)を剃(そ)らず、賀せず、弔せず、音楽をなさず、嫁娶(かしゅ)せず、兄弟財を分かたずをもって法とした。これがいわゆる武家制で、一方、京都の公家(くげ)衆には京家制があった。
のち明治政府は1874年(明治7)に、京家制を廃して武家制を用いることとした。これが今日も行われている忌服の制である。これによると、忌と服との期間を定め、父母は忌50日、服13月、夫は忌30日、服13月、祖父母、養父母、夫の父母は忌30日、服150日、妻は忌20日、服90日、嫡男の子、兄弟姉妹、伯叔父母は忌20日、服90日、その他となっている。また、神社関係では、古くは吉田家服忌令、白川家服忌令、賀茂社(かもしゃ)服忌令などがあったが、1874年10月17日、服忌は当分武家の制を用いることとした。第二次世界大戦後は1948年(昭和23)12月18日、神社本庁より「神職服忌心得」の通達が出され、翌年1月1日から施行された。これによると、忌の期間は、父母、夫、妻、子は10日、祖父母、孫、兄弟姉妹は5日など、非常に短期間となり、服はその人の心得に任すとされている。なお、伊勢(いせ)の神宮では、武家制が今日も用いられている。
[沼部春友]
服忌ともいい,死が発生してのち一定期間,喪服(凶服)を着て家に忌みこもること。〈忌〉は死のけがれにより家に謹慎することであり,〈服〉とはもと素服(そぶく)を着ることである。律令制のもとでは,父母の喪にあえば1年間は中央の官人も解官し休暇が与えられた。ただ高官の場合は除服出仕といい,喪中であっても出仕のことがあった。江戸時代になると,父母・養父母・夫の場合は〈忌50日,服13ヵ月〉のように定められた。忌の間は家に籠居し,忌があければ神事以外の仕事に従事した。これを〈服〉といった。
奈良時代の貴族の素服には遠江の貲布(さよみ)(麻布)が使用され,平安中期になると巻纓(まきえい),綾表衣,青朽葉の下襲(したがさね),青鈍色(にぶいろ)の表袴が素服であり,濃いねずみ色の服装であった。現在でも葬式の輿かきが白衣を着たり,喪主とその妻が白装束をする風があるのはこの素服の伝統をひいたものである。なかには喪主が白の裃・袴・足袋姿で白扇を持つ所がある。
→喪服
執筆者:田中 久夫
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