登山家、美術研究家。本名久太。高松(香川県)に生まれる。横浜商業学校卒業後、横浜正金銀行に勤務するかたわら『文庫』に「一葉女史」その他の評論を発表、山県悌三郎(やまがたていざぶろう)により同誌の記者に推輓(すいばん)され、文芸批評に健筆を振るってその全盛時代を築く。志賀重昂(しげたか)の『日本風景論』の影響下にあって探検時代の日本アルプスに登り、山岳紀行、山岳研究に新生面を開いた。1905年(明治38)イギリス人宣教師W・ウェストンの示唆を得て日本山岳会を創立、初代会長を務めた。1915年以後11年余、転勤先のアメリカ西海岸にあってシエラ・ネバダ、カスケード山脈に足跡をしるした。黎明(れいめい)期の登山界において先駆的役割を果たし、広重(ひろしげ)、北斎(ほくさい)に関する美術研究にも多くの業績を残した。主著『日本アルプス』全4巻(1910~15)、『氷河と万年雪の山』(1929)、『アルピニストの手記』(1936)、『浮世絵と風景画』(1914)。
[近藤信行]
『『小島烏水全集』14巻・別巻1(1979~87・大修館書店)』▽『近藤信行著『小島烏水――山の風流使者伝』(1978・創文社)』
明治〜昭和期の登山家,紀行文家,浮世絵研究家 日本山岳会初代会長;横浜正金銀行サンフランシスコ支店長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
登山家,紀行文家。本名久太。高松出身。横浜商業学校卒業後,横浜正金銀行入社。志賀重昂の《日本風景論》に触発され,岡野金次郎らと乗鞍岳,槍ヶ岳などに登った。この間,雑誌《文庫》の編集にもかかわる。イギリス人宣教師ウェストンのすすめをうけて,1905年10月武田久吉らとともに山岳会(後の日本山岳会)を創立。その機関誌《山岳》に多くの論文,紀行文を残す。1915-27年アメリカに滞在,カスケード,シエラ・ネバダの山々に登った。31年日本山岳会初代会長,35年名誉会員。みずからの活発な登山活動とともに山岳界の育成,登山の研究に熱意を燃やした日本の登山界の大先達である。主著は《日本アルプス》4巻(1910-15),《山の風流使者》(1949)など。また,浮世絵の研究家としても知られ,《浮世絵と風景画》(1914)などの著書もある。80年より《小島烏水全集》14巻が刊行された。
執筆者:徳久 球雄
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… 日本で近代登山の風潮が芽生えたのは,1894年地理学者志賀重昂が《日本風景論》を書き,〈登山の気風を作興すべし〉と説いたこと,また1888年に来日したイギリス人宣教師W.ウェストンの働きであった。小島烏水は1902年槍ヶ岳に登り,下山後ウェストンの著《日本アルプスの登山と探検》(1896)を読んで感激し,ウェストンと会い,武田久吉らとも協力して1905年に初めての登山団体として日本山岳会をつくった。明治末期から大正初期は日本アルプスの探検時代といわれ,主要な峰の登山が盛んに行われた。…
…中部地方にある三つの急峻な山脈,北アルプス(飛驒山脈),中央アルプス(木曾山脈),南アルプス(赤石山脈)を合わせた名称。アルプスの呼称はヨーロッパ・アルプスにちなむもので,イギリスの鉱山技師ゴーランドWilliam Gowlandが《日本案内》(1881)に用いたのが始まりであるが,この呼称を有名にしたのは宣教師で登山家であったW.ウェストンと,明治の登山家小島烏水(うすい)の功績に帰する。ウェストンは1896年に《日本アルプスの登山と探検》をロンドンで出版して,日本アルプスを世界に紹介し,その森林美と渓谷美をたたえた。…
※「小島烏水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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