朝日日本歴史人物事典 「恩田木工」の解説
恩田木工
生年:享保2(1717)
江戸中期,信州松代藩真田家の家老。名は民親,通称ははじめ佐吉,のち靭負,さらに木工と改める。同藩家老恩田民清の子で,享保20(1735)年に家督を継いで知行1000石。元文4(1739)年に城代となり,延享3(1746)年に30歳で家老職となった。千曲川と犀川に挟まれた松代藩領は1740年代以降,連年の水災に苦しめられて藩の財政は極度に窮乏していたが,他方では足軽の出勤拒否(ストライキ)や全領におよぶ激しい農民一揆が起こるなどして藩政は混乱し,ほとんどなす術を失うといった状態であった。このような状態の下で藩主真田幸弘は,宝暦7(1757)年8月に恩田木工に「勝手方御用兼帯」を命じて,藩財政再建の大役をゆだねた。木工は領民の政治に対する信頼を回復することを急務と考え,領民との対話政治を行って,彼らの同意を取りつけながら財政改革を進めていった。その内容は未進金の処理,小物成の一部廃止と本年貢の金納分の月割上納制の導入,荒廃地の開発,会計制度の整備と財政帳簿の管理制度の確立などであった。木工は嘘をつかないことを信条として政治を行い,人々の信頼を得て改革を進めていったが,46歳で惜しまれつつ世を去った。法名は玄照印鉄翁道関居士。松代長国寺の恩田家歴代の墓域に葬られた。『日暮硯』はこの間の木工の事蹟を筆録したものである。<参考文献>大石慎三郎『虚言申すまじく候』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報