日本の国内から戦地の将兵へ慰問のために送られた袋。ふつう横30cm,縦40cmぐらいの布袋で,中には武運長久の御守,薬品,タバコ,セッケン,缶詰などの日用品と慰問状が入れられ,それが契機となって兵士と差出人との間で文通が行われることもあった。袋は家庭で各自が手ぬぐいを二つ折りにして作るほかに市販品もあり,デパートでは中身のはいった既製品も売られていた。慰問袋の作製は日露戦争のときに出征軍人家族慰問婦人会,愛国婦人会,婦人矯風会などが取り組んだのがその始まりとされている。満州事変以後広く実施されるようになり,このころになると,全国の学校や職場で取り組まれたのをはじめ,市町村当局が婦人会や青年団の協力のもとに町内会や部落会をとおして慰問袋の作製を各家庭に割り当てており,慰問袋は市町村当局を経て軍の恤兵(じゆつぺい)部に集められ戦地に送られた。町内会など地域単位の組織は,行政当局によってしだいに国民組織に編成され,慰問袋や兵士との文通という活動は,兵士ばかりでなく銃後の国民を戦争協力体制に組み入れていく契機となったのである。
執筆者:功刀 俊洋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
戦地の兵士を慰問するため日用品や娯楽用品、雑誌、御守り、手紙などを入れて送る袋。日露開戦直後の1904年(明治37)3月婦人矯風会の会員が、アメリカ矯風会の経験談をヒントに、100個をつくり送ったのが始まり。慰問袋の名もcomfort bagの直訳。31年(昭和6)満州事変が起こると、新聞社の提唱で国防婦人会が中心となって郷土部隊の兵士に慰問袋を送る運動が大々的に展開され、37年からの日中戦争ではさらに大量の慰問袋が銃後と前線を結んだ。商品化もされ、38年にはできあいの慰問袋が1個2円から5円だった。やがて戦争が拡大、将兵数が激増し、物資欠乏、輸送困難となるにつれ、慰問袋も先細りとなった。
[森脇逸男]
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