慶長(けいちょう)・元和(げんな)年間に伊達政宗(だてまさむね)の家臣支倉常長(はせくらつねなが)(六右衛門)とフランシスコ会司祭ルイス・ソテロらがスペインを経てローマ教皇庁に派遣された使節。この使節の訪欧行については、ヨーロッパに多くの史料があり、また伊達家には使節招来の遺品が数々伝えられてなんら疑いの余地がないが、使節派遣がなんの目的でだれによって企てられたかは不明瞭(ふめいりょう)であり、史家の説はかならずしも一致していない。伊達政宗がその家臣支倉常長をローマに遣わしたことは、教皇にあてた政宗の書状などが現存していて動かしがたいが、伊達家には当時、太平洋を横断できる船をつくる技術団はおらず、また政宗はその書状に宣教師の派遣を請うと記しているが、使節が船出する前年から徳川幕府はキリシタンの迫害を開始していたから政宗は幕府の意に背いたことになる。それらの不可解な問題は、本使節行は元来、徳川家康と幕府が日本人をして日本船で太平洋を渡らせようと企てたことに発し、幕府の造船技術団を奥州に派遣し、伊達政宗に命じてこの事業をなさしめたとみなすことでいちおう解明できるが、史料の欠如と混乱からそれを断定できない。ともかく支倉とソテロおよび随員らは、1613年(慶長18)日本船で牡鹿(おしか)半島月浦(つきのうら)を出、ノビスパニア(メキシコ)を経由してスペインに至り、フェリペ3世に謁し、さらにローマに達し、1615年(元和1)教皇パウルス5世に謁見を賜り、帰路についた。支倉常長は1620年仙台に帰り、ソテロは1622年マニラから日本に潜入したが、2年後に大村(肥前)で処刑された。仙台藩ではキリシタン宗門に対し迫害を開始していたから、本使節はほとんど無意義なものとなった。2013年(平成25)、「慶長遣欧使節関係資料」(「ローマ市公民権証書」「支倉常長像」「ローマ教皇パウロ5世像」の3点)がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産(現、世界の記憶)に登録された。
[松田毅一]
『L・ペレス著、野間一正訳『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』(1968・東海大学出版会)』▽『松田毅一著『慶長遣欧使節――日本人初の太平洋横断』(1969・新人物往来社)』▽『高橋由貴彦著『ローマへの遠い旅』(1981・講談社)』
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1613年(慶長18)伊達政宗が家臣支倉(はせくら)常長を正使として派遣した遣欧使節。目的はノビスパン(メキシコ)との貿易を開くことであった。この派遣はイエズス会に対抗して東北地方に司教区を設置することを企図していたフランシスコ会士ルイス・ソテロの斡旋による。帆船の建造にあたったのが,1611年ノビスパンから徳川家康のもとに派遣されたビスカイノ配下の船匠と幕府の船大工だったことなどから,幕府の関与も認められる。支倉は現地で洗礼をうけるなど奔走したが,貿易の開始も宣教師派遣も実現せず,幕府による禁教令の発令もあって,失意のうちに20年(元和6)帰国した。
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…伊達政宗の臣下で慶長遣欧使節の正使。与市,五郎左衛門,のちに六右衛門常長または長経とも称する。…
※「慶長遣欧使節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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