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支倉常長 はせくらつねなが

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

支倉常長
はせくらつねなが

[生]元亀2(1571).陸奥
[没]元和8(1622).7.1. 仙台
江戸時代初期の仙台藩士。山口常成の子,支倉時正の養子。六右衛門と称する。幼少から伊達政宗に仕え,文禄の役に従軍して戦功をあげ政宗の信任を得た。慶長 18 (1613) 年政宗の命により慶長遣欧使節としてフランシスコ会士 L.ソテロとともに太平洋を横断,ノビスパン (現メキシコ) を経て同 20年1月マドリードに行き,フェリペ3世に謁見,同地で受洗してドン・フェリペ・フランシスコと称した。同年 11月ローマで教皇パウルス5世に謁見,歓迎されたが,本来の目的の奥州司教区の創設通商交渉は不成功に終り,元和5 (19) 年帰路についた。しかしキリシタン禁制当時の日本入航は容易でなく,同6年ようやく帰国。晩年は不遇であった。

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デジタル大辞泉の解説

はせくら‐つねなが【支倉常長】

[1571~1622]江戸初期の仙台藩士。幼名与市。通称、六右衛門。伊達政宗の命を受け、慶長18年(1613)日本を出発して渡欧、ローマで教皇パウロ5世に謁見して通商交渉に当たったが、成功せずに帰国。

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百科事典マイペディアの解説

支倉常長【はせくらつねなが】

江戸初期の陸奥(むつ)仙台藩士。支倉時正の養子,六右衛門とも。自署には長恒とある。1613年伊達政宗の命を受け,フランシスコ会士ルイス・ソテロとともにメキシコを経てスペインのフェリペ3世に通商開設と宣教師派遣を求める政宗の書を渡し,さらに自ら受洗した(洗礼名ドン・フェリペ・フランシスコ)。
→関連項目仙台藩

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

支倉常長 はせくら-つねなが

1571-1622 江戸時代前期の武士。
元亀(げんき)2年生まれ。陸奥(むつ)仙台藩士。慶長18年(1613)伊達政宗の命で,宣教師ソテロとともにメキシコをへてスペインにわたり,フェリペ3世に書状を奉呈し,さらにローマにおもむき教皇パウロ5世に謁見した。通商交渉は失敗し,元和(げんな)6年帰国。元和8年7月1日死去。52歳。本姓は山口。通称は六右衛門。名は別に長経。洗礼名はフェリペ=フランシスコ。

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朝日日本歴史人物事典の解説

支倉常長

没年:元和8.7.1(1622.8.7)
生年:元亀2(1571)
伊達政宗が慶長・元和年間ヨーロッパに派遣した使節大使。初め与市のち六右衛門または長経と称した。父は山口常成で,父の兄支倉時正の養子となる。父の断罪に連座し一時追放されたが,のち許され600石を給せられる。慶長16(1611)年政宗はフランシスコ会士ソテロを招き領内での布教を認め,その助言によってスペイン領メキシコとの通商を希望した。そこでスペイン国王ならびにローマ教皇に使節を派遣することになり,一方,これにより,ソテロはフランシスコ会士の増派と奥州司教区の設置を意図した。慶長18年9月15日,政宗が幕府船手奉行向井将監の応援をえて建造したサン・フアン・バウティスタ号で,支倉はソテロと共に牡鹿半島月の浦を出帆した。 一行はメキシコを横断して大西洋を渡り,マドリードでスペイン国王フェリペ3世に謁見,政宗の書状を呈した。同地滞在中,王室跣足派女子修道院附属教会において国王臨席のもとに受洗した。霊名はフェリペ・フランシスコ。さらにローマに赴き,パウロ5世に拝謁し政宗の書状を奉呈した。ローマ市から一行に公民権が贈られ,支倉は貴族に列せられた。再びマドリードに戻ったときには,日本でのキリシタン迫害の報告がとどいており,スペイン政府の態度は冷たかった。そのため,当初意図していた願いはかなえられず,空しくスペインをあとにせざるをえなかった。セビリアからメキシコを経てマニラに立ち寄り,元和6(1620)年8月26日仙台に帰着。2年後病没した。<参考文献>L.ペレス著・野間一正訳『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』,松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』,支倉常長顕彰会編『支倉常長伝』

(野間一正)

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世界大百科事典 第2版の解説

はせくらつねなが【支倉常長】

1571‐1622(元亀2‐元和8)
伊達政宗の臣下で慶長遣欧使節の正使。与市,五郎左衛門,のちに六右衛門常長または長経とも称する。1592年(文禄1)朝鮮の役のさい政宗とともに朝鮮に渡り軍功を立てた。1613年(慶長18)9月,伊達政宗の命をうけて南蛮国にフランシスコ会士ソテロほか180余人とともに派遣された。12月メキシコに到着し,さらに随員二十数名とともにスペインへ渡った。15年1月スペイン国王フェリペ3世に謁見し,通商開設と宣教師派遣を要望する政宗の書状と協定条項を奏呈した。

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大辞林 第三版の解説

はせくらつねなが【支倉常長】

1571~1622) 江戸初期の仙台藩士。伊達政宗の命で1613年渡欧し、ローマで法王パウロ五世に謁見し、市民権を得た。奥州司教区の創設、通商の交渉は成功せず、20年帰国。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

支倉常長
はせくらつねなが
(1571?―1622)

伊達政宗(だてまさむね)の家臣で、慶長(けいちょう)から元和(げんな)年間に、ローマ法王庁に使節として派遣された。一般に「常長」と称されているが、自筆の文書には「支倉六右衛門長経」とあり、ローマ市民権証書など外国の史料も「六右衛門」で、「常長」は後世の支倉家の系譜類にみられるにすぎない。六右衛門が主役を演じたといわれる「慶長遣欧使節」の発端については不可解なこともあるが、六右衛門(常長)の前半生と晩年についても確実なことはほとんど何もわからない。ともかく彼は1613年10月(慶長18年9月)に伊達政宗の書状を携え、スペイン人宣教師ルイス・ソテロとともに、仙台藩で建造された日本船で太平洋を渡り、さらにメキシコから大西洋を横断してスペインに至った。スペイン政府はこの使節の処遇に困惑したが、ソテロの熱意と敏腕はスペイン国王を感動させ、一行はその援助のもとにローマに向かうことをえた。それに先だち、六右衛門はマドリードの修道女院の教会で、フィリポ・フランシスコの教名で洗礼を受けた。目撃者は、彼は背丈は低いが威厳あり、容姿整い、沈着、賢明、謙譲だと賞賛している。
 1615年11月、法王パウロ5世に謁見がかない、使命を果たしたが、帰路は苦難の連続で、20年(元和6)に仙台に帰ったが、その直前に伊達政宗はキリシタン宗門に対する弾圧を始めており、六右衛門は数々の将来品を政宗に献じたあと、元和8年7月52歳の生涯を終えた。[松田毅一]
『東京大学史料編纂所編・刊『大日本史料 12之12』(1909) ▽松田毅一著『慶長使節――日本人初の太平洋横断』(1969・新人物往来社) ▽高橋由貴彦著『ローマへの遠い旅』(1981・講談社)』

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世界大百科事典内の支倉常長の言及

【フランス】より

…遣欧使節がローマで新しく教皇となったシクストゥス5世から〈黄金拍車勲章〉を授かったとき,勲章を届け手渡したのもフランス大使であった。 日本人のフランス上陸は,1615年10月支倉常長の一行がスペインのバルセロナからローマに向かう地中海上で嵐に遭い,南フランスのサン・トロペに緊急避難して2泊したのが最初である。一方,1619年には19歳のF.カロンが平戸に上陸し,41年まで在留して日本語に熟達した。…

※「支倉常長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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