成田知巳(読み)なりたともみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「成田知巳」の意味・わかりやすい解説

成田知巳
なりたともみ
(1912―1979)

政治家香川県生まれ。東京帝国大学法学部卒業後、三井鉱山入社。第二次世界大戦後、三井化学文書課長を辞職し、1947年(昭和22)総選挙に日本社会党から立候補。以来連続当選12回(香川1区)。党分裂時には左派に属し、1958年以降、党の総務局長、政策審議会長、組織局長を歴任し、60年安保には左派の理論家として活躍した。1962年書記長となってからは左右両派の調停役として挙党体制の確立に努力した。1968年10月から1977年12月まで委員長。労働・農民運動の経験はもたないが、理論・政策能力にたけ、1970年代に「野党共闘」を提唱した。昭和54年3月9日、急性骨髄性白血病のため66歳で死去

[荒 敬]

『成田知巳著『成田知巳・活動の記録』全3巻(1981~1982・成田知巳追悼刊行会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「成田知巳」の意味・わかりやすい解説

成田知巳
なりたともみ

[生]1912.9.15. 香川
[没]1979.3.9. 東京
政治家。東京大学を卒業し,三井鉱山に勤めた。 1947年衆議院議員に当選。以来連続 12回当選。社会党左派に属し,理論家,政策マンとして頭角を現す。 59年日本社会党政策審議会会長。 62年書記長に就任。 65年,労働組合依存,議員党的体質,日常活動不足,が克服すべき党の欠陥であるとする「成田3原則」を指摘した。 68年委員長に就任。党内では無派閥を貫き,党外では全野党共闘を唱えて長期にわたって在任したが,77年参議院選挙敗北の責任をとり辞任

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「成田知巳」の解説

成田知巳 なりた-ともみ

1912-1979 昭和時代後期の政治家。
大正元年9月15日生まれ。三井鉱山,三井化学につとめる。昭和22年衆議院議員(当選12回,社会党)。左派の理論家,政策通として知られ,党政策審議会会長,書記長などをへて,43年から52年まで委員長をつとめた。昭和54年3月9日死去。66歳。香川県出身。東京帝大卒。

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