挙母藩(読み)ころもはん

藩名・旧国名がわかる事典 「挙母藩」の解説

ころもはん【挙母藩】

江戸時代三河(みかわ)国加茂(かも)郡挙母(現、愛知県豊田(とよた)市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は崇化館(すうかかん)。1681年(天和(てんな)1)頃までは「衣」と書いた。1604年(慶長(けいちょう)9)、旗本三宅康貞(みやけやすさだ)が1万石で入り立藩したが、2代康信(やすのぶ)が19年(元和(げんな)5)に伊勢(いせ)国亀山藩に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となった。36年(寛永13)に3代康盛(やすもり)が1万2000石で戻ったが、64年(寛文(かんぶん)4)、再び4代康勝(やすかつ)が三河国田原(たはら)藩へ転封となった。天領を経て、81年に本多忠利(ただとし)が1万石で入り3代続いたあと、1749年(寛延(かんえん)2)に上野(こうずけ)国安中藩から内藤政苗(まさみつ)が2万石で入った。以後明治維新まで内藤氏7代が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で挙母県となり、その後、額田(ぬかた)県を経て翌年愛知県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「挙母藩」の意味・わかりやすい解説

挙母藩
ころもはん

江戸時代、三河国加茂(かも)郡挙母(愛知県豊田(とよた)市)に置かれた譜代(ふだい)藩。1604年(慶長9)三宅康貞(みやけやすさだ)が1万石で入封して挙母藩が成立するが、19年(元和5)に三宅康信(やすのぶ)が伊勢(いせ)国(三重県)亀山(かめやま)へ移封して一時期廃藩。その後、1636年(寛永13)康信の子康盛(やすもり)が亀山より帰って1万2000石を領有し、藩として復活するが、64年(寛文4)康勝(やすかつ)の代に三河国田原(たはら)へ転じ、ふたたび廃藩。さらに1681年(天和1)本多忠利(ただとし)が1万石で入封して三度目の藩となって忠次(ただつぐ)、忠央(ただなか)と続く。1749年(寛延2)本多氏にかわって内藤政苗(ないとうまさみつ)が2万石で入封。同時に幕府の命によって挙母に新たな城郭を築いたが、次の学文(さとぶみ)が1770年(明和7)に家中不取締で処罰を受け、80年(安永9)にその城郭を改築し、87年(天明7)には藩校崇化館(すうかかん)を設立した。以後、政峻(まさみち)、政成、政優(まさひろ)、政文、文成(ふみなり)と続き、1871年(明治4)廃藩となり、挙母県、額田(ぬかだ)県を経て、翌年愛知県に編入される。

[渡辺和敏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「挙母藩」の意味・わかりやすい解説

挙母藩
ころもはん

江戸時代,三河国 (愛知県) 加茂郡の一部を領有した藩。三宅氏の1万石に始り,本多氏の1万石を経て,寛延2 (1749) 年,内藤氏が3万石で入封,以後廃藩置県にいたる。譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「挙母藩」の解説

挙母藩

三河国、挙母(ころも)(現:愛知県豊田市)を本拠地とした譜代藩。歴代藩主は三宅氏、本多氏、内藤氏など。

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世界大百科事典(旧版)内の挙母藩の言及

【豊田[市]】より

…中世末期には徳川家康の祖である松平氏らの土豪が割拠していた。近世は譜代の挙母藩2万石の城下町として,また矢作川の水運を利用した中継商業地として栄え,明治に入ってからは繭の集散地としてにぎわった。1937年論地ヶ原にトヨタ自動車の工場が誘致されてから〈東洋のデトロイト〉といわれるほどの飛躍的な発展をとげ,現在も自動車の町として世界的に知られている。…

※「挙母藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」