日本大百科全書(ニッポニカ) 「教皇領国家」の意味・わかりやすい解説
教皇領国家
きょうこうりょうこっか
Kirchenstaat ドイツ語
ローマ教皇を君主とする国家。321年コンスタンティヌス1世がローマの教会に特別な土地の贈与をしたことに起源を発する。以後7世紀まで、異民族侵入や社会不安の時代に、諸教皇がビザンティン皇帝にかわってイタリア半島の治安維持と住民の生活保護に努めたことによりその基礎を固めた。とくに北イタリアより南進してきたランゴバルド人に対抗するため、ビザンティンの救援を得られなかった教皇ステファヌス2世はフランク国王ピピン(小)に保護を求め、756年、彼から中部イタリアに領土の寄進を受けた。これが「聖ペテロの遺産」Patrimonium Sancti Petriとよばれるもので教皇領国家の正式の発足である。その領域は、ローマからアペニン山脈を越えラベンナまで、半島を横断する帯状の地帯を中心とした。781年ピピンの子シャルルマーニュ(後のカール大帝)がこの寄進を更新した。だが、このような寄進とそれによる領土の確保は、多分に象徴的なものにすぎないと考えられる。
教皇が実質的に中部イタリアの主権者となるのは、1200年前後、インノケンティウス3世の復権recuperatio政策によるのである。すなわち、彼はそれまで名義上のみ教皇に属していた土地を「復権」と称して事実上も支配下に入れ、統一国家を形成したのである。また当時よりこれを守護する教皇軍も出現する。1274年、南フランスのブネサン伯領が教皇の飛び領地となった。14世紀、教皇の「バビロン捕囚」(アビニョンの幽囚)の間、教皇は同伯領に囲まれたアビニョンに居を移し、1348年これを購入したが、中部イタリアの領地はギベリン(皇帝)党とグェルフ(教皇)党に分裂した貴族や諸都市の争乱の場となった。ローマ帰還後、教皇マルティヌス5世(在位1417~31)は巧みな外交と戦術によって中部イタリアの主権を回復した。ニコラウス5世、アレクサンデル6世、ユリウス2世らの努力により、教皇領は封建的諸君侯や自治都市の反抗を抑え、17世紀までに中央集権的な絶対王制を確立した。しかしフランス革命の勃発(ぼっぱつ)によりブネサンとアビニョンを失い、1800年ナポレオンによりイタリアの領土も奪われた。14年、ウィーン体制の確立とE・コンサルビの政略により、教皇領はほぼ回復された。だが、以後はオーストリア、フランスなど外国軍隊に守られる状態となった。61年成立したイタリア王国は教皇領を合併し、70年にはローマ市をも占領した。教皇はこれを承認しなかったが、1929年ピウス11世とファシスト政権との間にラテラン協定が結ばれ、現在のバチカン市国が成立したのである。
[坂口昂吉]