中国,南宋末の宰相,忠臣。字は宋瑞または履善。号は文山。吉州吉水(江西省)の出身。進士の首席。地方官時代,モンゴル軍進入に浮足立った朝廷の遷都論に反対したり,権力者賈似道(かじどう)にたてついたりして気骨を示す。1275年(徳祐1),元軍の侵攻が本格化すると,任地の江西南端贛州(かんしゆう)から土豪,少数民族などの混成義勇軍を率いて国都臨安にかけつけた。76年正月,元の攻勢で無人化した中央政府の宰相に抜擢され,敵の総司令官バヤン(伯顔)と和平交渉にあたったが抗論して譲らず捕らえられた。北方への護送中,鎮江で脱出し,海路温州から福建に逃れ,度宗の長子瀛国(えいこく)公㬎のもとにはせ参じた。しかしもと宰相の陳宜中らと合わず,分派行動を起こし,福建,江西地方の回復をはかったが成功せず,広東五坡嶺で元将張弘範に捕らえられた。宋の滅亡とともに元の世祖フビライは,江南の漢民族支配に彼を利用しようとして,大都(北京)に護送させた。しかし文天祥は宋王朝への忠節をまげず,在獄3年ののち82年(至元19)処刑された。81年獄中で作った長詩〈正気歌(せいきのうた)〉は,天地間の不変の気を宋に忠節をつくすみずからの姿と重ねて歌ったもので,藤田東湖,吉田松陰ら日本の幕末の勤皇の志士,忠君愛国の思想に少なからぬ影響を及ぼした。《文山全集》20巻があり,杜甫の詩の集句も作っている。
執筆者:梅原 郁
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中国、南宋(なんそう)末の政治家。吉水(きっすい)(江西省吉水県)の人。20歳で進士に第一位で及第。1259年モンゴル軍が四川(しせん)に侵入し、遷都説が強まると、一地方官にすぎなかった彼は強くこれに反対し、官を追われた。のち復職したが賈似道(かじどう)と対立して辞職。76年元(げん)軍が首都臨安に迫ると、義勇軍1万人を率いて奮戦したがかなわず、宋は元に降服した。講和のため元の丞相(じょうしょう)バヤンと会見、口論して拘留されたが脱走、福州で益王を奉じ、宋の残兵を集めて転戦した。ふたたび元に捕らえられ、毒を仰いだが果たせず、大都(北京(ペキン))に送られた。元への仕官を切望されたが拒否し、獄中にあること3年、「正気の歌」を残して刑死した。
[柳田節子]
『梅原郁著『文天祥』(1967・人物往来社)』
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…時の官吏が一旦進士となると,学問をすてて顧みないのを嘆き,みずから発奮して学に励み,宝祐4年(1256)の博学宏詞科に及第した。科挙で文天祥の答案を認めて首席としたことは有名。官は秘書郎より礼部尚書兼給事中に至ったが,その間しばしば天子を諫め,また国家の大事のために献策した。…
…中国,南宋滅亡の後,元(モンゴル)の捕虜となった文天祥が1281年北京の獄中で作った抵抗の詩。中国文学史上屈指の傑作で,悲劇的なその生涯とあいまって,後世に大きな感銘を与えた。…
…江湖派の詩人は,南宋が滅ぶと,モンゴルへの抵抗の意味もこめて,遺民と呼ばれる隠逸詩人に移行する。抵抗の英雄である文天祥の悲壮な詩は,宋詩の末路を飾るものであった。 宋詩は中国においても日本においても,古文辞派によって堕落した弱々しい詩として否定されたが,清朝に入って見直され,清朝後期の江西派は黄庭堅を祖述した。…
※「文天祥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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