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日ソ中立条約 にっソちゅうりつじょうやくJapan-USSR Neutrality Pact

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日ソ中立条約
にっソちゅうりつじょうやく
Japan-USSR Neutrality Pact

日本とソ連が 1941年4月 13日松岡洋右外相とスターリン首相の間で調印,締結した条約。4ヵ条から成り,両国間で平和友好関係を維持し,相互の領土保全不可侵を尊重すること (1条) ,締約国の一方が第三国によって軍事行動の対象とされた場合には,他方はその紛争の全期間,中立を守ること (2条) ,有効期間は5年,期間満了の1年前に予告をもって廃棄通告しうること (3条) などを規定している。本条約は,日本にとっては北方からの軍事的脅威を弱め,南進に力を注ぐことができ,ソ連にとっては対独戦にのみ集中することができる効果をもった。その後ソ連は 45年2月のヤルタ会談の「秘密協定」で対日戦参加を決め,同年4月5日に廃棄を通告,日本は延長を希望したが拒否された。ソ連は中立条約の有効期間満了に先立つ8月8日に日本に対し宣戦布告した。

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デジタル大辞泉の解説

にっソ‐ちゅうりつじょうやく〔‐チユウリツデウヤク〕【日ソ中立条約】

昭和16年(1941)4月、日本とソ連との間で相互不可侵と相互中立を定めた条約。同年7月、日本は関特演関東軍特種演習)と称してソ満国境に進軍し、この条約を無視。一方、有効期限内の同20年、ソ連は廃棄を通告、対日参戦した。

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百科事典マイペディアの解説

日ソ中立条約【にっソちゅうりつじょうやく】

1941年に調印された日本・ソ連間の条約。外相松岡洋右,駐ソ特命全権大使建川美次(よしつぐ)とソ連外務人民委員V.M.モロトフとがモスクワで調印。相互不可侵および,一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた。
→関連項目日本

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世界大百科事典 第2版の解説

にっソちゅうりつじょうやく【日ソ中立条約】

1941年4月13日に調印された日本とソビエト間の中立条約。外相松岡洋右,駐ソ特命全権大使建川美次とソビエト外務人民委員V.M.モロトフとがモスクワで調印した。1940年7月に成立した第2次近衛文麿内閣の松岡外相は,第2次世界大戦が独伊の枢軸側に有利に展開しているうちに日独伊三国同盟を結び,ついでドイツのあっせんによって日独伊ソ四国協商を成立させ,四国協商の圧力でアメリカにアジアから手を引かせて日中戦争を解決し,同時に南進政策を有利にすすめるという独特の構想をいだいていた。

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大辞林 第三版の解説

にっソちゅうりつじょうやく【日ソ中立条約】

1941年4月、日本とソ連との間で結ばれた相互不可侵条約。有効期間5年。日本はこの条約により南進政策を進めた。45年8月、ソ連の対日参戦により失効。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日ソ中立条約
にっそちゅうりつじょうやく

1941年(昭和16)4月にモスクワで調印された日本と旧ソ連との中立条約。日本は、1939年のノモンハン事件でソ連軍に敗れて以来、さしあたり北方への進出をあきらめ、南方へ進むことにした。外務大臣松岡洋右(ようすけ)は、まず独伊と三国同盟を結び、ついでこれを、ソ連を含む四国協商に発展させ、この力を借りて英米を牽制(けんせい)し、この間に南進するという構想をたてた。この構想を実現するため、日本は40年9月に日独伊三国同盟を締結し、ソ連に中立条約の締結を提案した。ソ連も1939年8月に独ソ不可侵条約を締結していたが、同年9月にはヨーロッパで戦争が始まっていたので、ヨーロッパとアジアでの二正面戦争を避けるために日本の提案に応じた。しかし、日本のほうがより強く同条約を必要としていたから、条約調印にあたり、日本は、1925年(大正14)の日ソ基本条約で許与された北樺太(からふと)(サハリン)の利権を整理する問題を数か月内に解決するよう努力するとソ連に約束せざるをえなかった。かくて、日ソ両国は、41年4月13日、有効期間5年の本条約を成立させ、一方が第三国の軍事行動の対象となった場合に、他方は当該紛争の全期間にわたって中立を守ることを約した。
 ところが、この条約を結んで2か月余しかたたない1941年6月に独ソ戦が始まった。松岡外相は南進を一時延期して対ソ戦を開始するよう強く主張した。御前会議はこの主張を排し、南進を確認し、さしあたり独ソ戦への不介入を決めたが、同時に、独ソ戦の推移が日本に有利に進展するならば、武力を行使して北方問題を解決することを決めた。このために実施されたのが関東軍特別大演習である。しかし、日本が南進を開始し、日米関係が悪化したので、対ソ開戦には至らなかった。同年12月に日本が米英などと戦争状態に入ったのちも日ソ間の中立は維持されたが、45年4月5日にソ連は同条約の有効期限が満了後延長しないことを通告。同年8月9日には連合国間の協定に基づき、日本に宣戦を布告して攻撃を開始した。日ソ中立条約は、法的には有効期間中にソ連によって破棄された。[中西 治]
『日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第五巻 三国同盟・日ソ中立条約』(1963・朝日新聞社) ▽鹿島平和研究所編『日本外交史 第21巻 日独伊同盟・日ソ中立条約』(1971・鹿島研究所出版会) ▽クタコフ著、ソビエト外交研究会訳『日ソ外交関係史 第二巻』(1967・刀江書院)』

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世界大百科事典内の日ソ中立条約の言及

【ソビエト連邦】より

…スターリンはソ連の国益のためにこの挙に出たのだが,ドイツがポーランドに侵入すると,ポーランド領の東半分を占領し,ドイツとの間に友好境界条約を結んだ。ドイツとの接近から得た最大の獲得物は,混乱した日本との間に日ソ中立条約を40年に結んだことであったろう。この間フィンランドとの戦争で国境地帯を割譲させ,40年には,旧ロシア帝国領であったバルト海沿岸の3国をソ連邦に併合するなど,強引な安全保障策を追求した。…

【ロシア】より

…30年代には満州国に駐留する関東軍とソ連軍とのあいだに何回か武力衝突が繰り返された。第2次大戦前夜の41年,それぞれ正面に敵をかかえた両国は日ソ中立条約を結んだものの,大戦末期の45年にソ連は日本に宣戦を布告して数日間兵戈をまじえた。南サハリンと千島列島はソ連軍によって占領された。…

※「日ソ中立条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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