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松岡洋右 まつおか ようすけ

美術人名辞典の解説

松岡洋右

外交官・政治家。山口県生。渡米した後外交官となり、上海領事官補・外務書記官兼首相秘書官等を歴任した。また国際連盟脱退ジュネーブ会議に出席し、全権として華やかな役割を演じた。近衛内閣外相。昭和21年(1946)歿、67才。

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デジタル大辞泉の解説

まつおか‐ようすけ〔まつをかヤウすけ〕【松岡洋右】

[1880~1946]外交官・政治家。山口の生まれ。オレゴン大学卒業。国際連盟特別総会に首席全権として出席し、脱退を宣言。満鉄総裁を経て、第二次近衛内閣の外相となり、日独伊三国同盟日ソ中立条約を締結。第二次大戦後、A級戦犯として起訴されたが病没

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百科事典マイペディアの解説

松岡洋右【まつおかようすけ】

外交官,政治家。山口県生れ。米国オレゴン州立大学卒。外務省に入った。1921年外務省を辞し,満鉄理事。1927年同副総裁。1929年政友会代議士となり,1931年の第59議会では幣原外交を批判。
→関連項目近衛文麿内閣東京裁判

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松岡洋右 まつおか-ようすけ

1880-1946 明治-昭和時代前期の外交官,政治家。
明治13年3月4日生まれ。外交官を17年間つとめたのち,大正10年満鉄理事,昭和2年副総裁。5年衆議院議員(当選2回,政友会)。7年国際連盟総会の首席全権となり,8年満州国否認の採択に抗議・退場した。10年満鉄総裁。第2次近衛(このえ)内閣の外相として,15年日独伊三国同盟,16年日ソ中立条約を締結。戦後,A級戦犯に指名され,裁判中の昭和21年6月27日病死。67歳。山口県出身。オレゴン州立大卒。
格言など】日本はどうなるだろうか(死の3日前のつぶやき)

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世界大百科事典 第2版の解説

まつおかようすけ【松岡洋右】

1880‐1946(明治13‐昭和21)
外交官,政治家。山口県出身。13歳で渡米し,苦学して1900年にオレゴン州立大学を卒業し,04年外交官および領事官試験に合格,上海領事館,関東都督府,ロシア,アメリカに在勤した。21年に外務省を辞めて満鉄理事となり,27年には満鉄副総裁に就任,この間に対満蒙積極論の考えを強くする。29年に帰国,山口第2区から政友会代議士になった。31年の第59議会では幣原外交を批判し,満蒙は日本の生命線であると主張した。

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大辞林 第三版の解説

まつおかようすけ【松岡洋右】

1880~1946) 政治家。山口県生まれ。オレゴン大卒。外交官を経て代議士。1933年(昭和8)国際連盟首席全権として、連盟脱退を宣言。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外相として日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結。戦後 A 級戦犯として裁判中病死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

松岡洋右
まつおかようすけ

[生]1880.3.4. 山口
[没]1946.6.27. 東京
外交官,政治家。 1893年渡米,オレゴン大学に学び,帰国後外務省に入り,1921年南満州鉄道会社理事,さらに副総裁を歴任。のち衆議院議員となり,政友会に属した。 33年ジュネーブの国際連盟会議に全権大使として出席し,日本軍の満州撤退勧告案 (→リットン調査団 ) が採択されたとき,議場を退場,連盟脱退の役割を演じ,「ジュネーブの英雄」とされた。 40年第2次近衛内閣の外相となり,日独伊三国同盟 (1940) ,日ソ中立条約 (41) を締結。対米強硬路線に立ち,第2次世界大戦後,A級戦犯として東京裁判で審理中病没。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松岡洋右
まつおかようすけ
(1880―1946)

大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。1904年(明治37)外交官となり、中国などに勤務。満蒙(まんもう)への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。1921年(大正10)満鉄理事となる。1927年田中義一(たなかぎいち)内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の「満蒙分離政策」を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折(ざせつ)。1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。幣原(しではら)外交を非難・攻撃し「自主外交」を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、「満州国」が否認されたため退場した。1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、昭和21年6月27日獄中で病死した。[佐々木隆爾]
『松岡洋右伝記刊行会編『松岡洋右』(1974・講談社) ▽豊田穣著『松岡洋右――悲劇の外交官』上下(新潮文庫)』

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世界大百科事典内の松岡洋右の言及

【外交】より

…それは〈迂回外交〉ということもできる。 太平洋戦争前の日本の外相松岡洋右も〈グランド・ストラテジー〉を狙い,〈迂回外交〉の実践者であった。すなわち,彼は四大国を中心として,世界の政治秩序を再構成する夢をもち,またドイツ,イタリアと軍事同盟を結び,ソビエトと中立条約という形で提携を進めることにより,アメリカに対する日本の立場を強化し,アメリカの了解をとりつけうるものと構想した。…

【太平洋戦争】より


[開戦への道]
 1941年4月16日,第2次近衛内閣は日米関係の改善をめざし,ワシントンで日米交渉を開始した。近衛首相らは,日独伊三国同盟の反米的性格を弱めた〈日米了解案〉を基礎に交渉を進めたが,松岡洋右外相の反対にあい,交渉は難航した。6月22日に独ソ戦が勃発すると,日本は7月2日の御前会議で南北併進の方針を決定し,陸軍は7月下旬から,〈関東軍特種演習〉(関特演)を実施してソ連を後方から威嚇した。…

【日ソ中立条約】より

…1941年4月13日に調印された日本とソビエト間の中立条約。外相松岡洋右,駐ソ特命全権大使建川美次とソビエト外務人民委員V.M.モロトフとがモスクワで調印した。1940年7月に成立した第2次近衛文麿内閣の松岡外相は,第2次世界大戦が独伊の枢軸側に有利に展開しているうちに日独伊三国同盟を結び,ついでドイツのあっせんによって日独伊ソ四国協商を成立させ,四国協商の圧力でアメリカにアジアから手を引かせて日中戦争を解決し,同時に南進政策を有利にすすめるという独特の構想をいだいていた。…

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