日中交渉史(読み)にっちゅうこうしょうし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日中交渉史」の意味・わかりやすい解説

日中交渉史
にっちゅうこうしょうし

日本と中国との交渉の始まりは、2000年を超える昔にさかのぼる。すなわち、弥生(やよい)文化の基盤となる稲作の技術、および鉄器や青銅器の鋳造技術は、その現物とともに中国大陸から伝えられたものであった。このような中国文化の移入によって、日本列島の上に文明社会が発展し、やがて古代国家の形成へと導かれてゆく。

[山口 修]

弥生文化

古く中国では、日本のことを「倭(わ)」とよんだ。その理由は明らかでない。倭および倭人のことが文献のうえに登場するのは紀元1世紀後半である。中国の史書『漢書』(かんじょ)地理志には、倭人について「楽浪(らくろう)(いまの平壌付近)の先の海の中に倭人がいて、分かれて百余の国をつくっている」と記す。

 これが、わが国に関する最古の記録である。当時は弥生文化中期にあたり、北九州を中心とする西日本に多くの小国が分立していた。そうした小国の一つに、いまの博多(はかた)付近を占める奴(な)国があった。奴国王は57年、建国直後の後漢(ごかん)に使者を遣わして貢献した。後漢の皇帝は倭の奴国王に金印を賜ったことが『後漢書』に記されている。そして金印は、江戸時代の末期に志賀島(しかのしま)(福岡県)の西岸から発見された。

 その後、107年にも倭の国王たちが連合して後漢に使者を送っている。やがて倭の小国の間にも統一の気運がおこり、邪馬台国(やまたいこく)の女王を中心とする連合国家が形成されるに至った。3世紀初めのころと推定される。中国では後漢が倒れ、三国時代となっていた。三国の一つ、魏(ぎ)は東方の経略に成功し、韓(かん)族を服属させ、勢力を日本にも及ぼそうとする。邪馬台国もしばしば魏に朝貢し、魏の使者も日本を訪れて、倭人の国の情況が詳しく知られるようになった。こうして記述されたのが『三国志』のなかの「魏志倭人伝」である。ただし倭人伝は、地理の記述に不明のところが多く、邪馬台国の所在も、畿内(きない)か、九州か、いまだに解明されていない。

[山口 修]

古墳文化

4世紀における日本国内の情況は、中国史書の記述が不備のため明らかでない。しかし5世紀になると、河内(かわち)を中心に強大な王権が確立していた。国王や各地の豪族たちはその墓所として壮大な古墳を築くに至っている。すでに中国は南北朝時代であった。倭の歴代の王は、南朝の諸王朝に遣使し、朝貢して、倭国王としての地位の確認を求めた。史書『宋書(そうじょ)』『梁書』(りょうしょ)などには、当時の5人の王の名と、朝貢の次第が記録されている。多くの造形文化と並んで、漢字や漢文の摂取に努めたのもこのころである。南朝から伝えられたので、漢字は南方音で読まれた。これが呉(ご)音である。やがて仏教が伝来すると、仏典も呉音で読まれる。すなわち呉音は、仏典の読み方を中心に今日まで残った。

[山口 修]

飛鳥・白鳳時代

仏教文化は7~8世紀、すなわち飛鳥(あすか)時代から白鳳(はくほう)時代を経て奈良時代に至る間、大いに興隆した。仏寺の建築や仏像の彫造には、中国大陸や朝鮮半島から渡来した技術者が指導的な役割を担った。仏典もしだいに消化されるに至り、日本人は在来の「神」のほかに、衆生を救う仏や菩薩(ぼさつ)の存在を初めて知ったのであった。中国では6世紀末に隋(ずい)が天下を統一し、7世紀初めには隋にかわって唐が建国する。飛鳥時代の日本は、数度にわたって遣隋使を送り、さらに遣唐使を送って、仏教をはじめ中国の文物制度を学ぶことに努めた。

 いわゆる大化改新を経て、日本の国家体制も整えられると、唐制に倣って律令(りつりょう)の編修が進められた。こうして完成をみたのが大宝(たいほう)律令である(701)。大化を初めとする元号の制定も、また中国の制度を取り入れたものであった。

 この間、660年代には、唐と新羅(しらぎ)が連合して百済(くだら)を滅ぼした後を受け、日本は百済復興のために軍隊を出動させている。しかし日本の水軍は白村江(はくそんこう)において唐の水軍と戦って全滅した(663)。その後、唐との間にしばらく緊張の状態が続くが、仏僧の往来や文物の受容は絶えることがなかった。

 仏教と並んで道教が伝えられたことも、日本文化のうえに大きな影響を与えている。道教の祭神儀礼は在来の神道(しんとう)に取り入れられ、大陸の諸神も日本の神社に祀(まつ)られた。道教の最高神を表す「天皇」の称を日本の君主が使用するに至ったのも、おそらく白鳳時代と考えられる。旧来の「倭」にかわって「日本」の国号もこのころから使用された。

[山口 修]

奈良・平安時代

8~9世紀、すなわち奈良時代から平安時代の前期にかけての日本は、まさしく唐風文化の時代であった。平城京も、平安京も、唐の長安城の規模に倣って造営された。平安京は、左京を洛陽(らくよう)、右京を長安ともよんだが、都市としては左京を主体に発展したので、洛陽が平安京の別称となるに至った。政治は律令に基づいて運営され、朝廷における服装や調度も唐風を取り入れた。『万葉集』や『古今和歌集』と並んで、勅撰(ちょくせん)の漢詩漢文集も次々に編修された。貴族の教養といえば、中国の詩文にほかならなかった。遣唐使もしきりに往来している。

 ところで当時、中国の政治・文化の中心は長安・洛陽であり、したがって発音も、わが国で用いられてきた呉音とは違っていた。そこで新しく、隋・唐時代の北方音を、漢字の読み方として採用した。これが漢音である。

 平安時代になると、新しい仏教、すなわち真言(しんごん)宗や天台宗が唐から将来された。新仏教は密教として朝廷や貴族の尊信を受け、日本文化の一つの基盤を形づくるに至る。しかし9世紀末、唐も国勢が衰え、遣唐使も廃止されるに及び、わが国独自の文化、いわゆる国風(こくふう)文化が発展する。漢字から、表音文字として「仮名」がつくられ、普及した。

 10世紀に入り、唐は倒れて、中国は五代の世となる。やがて宋(そう)が天下を統一するが、日宋の間にもはや正式の国交は開かれなかった。しかし商人や仏僧の往来は依然として盛んであった。平安中期以後、中国の宋代において、両国は経済・文化の面において深い接触を保っていたのであった。宋との貿易で、もっとも多く輸入したものは銅銭である。わが国における貨幣の鋳造は、平安中期(10世紀なかば)以来、中絶していたから、平安後期より発達をみた貨幣経済のなかで流通したのは、もっぱら宋銭であった。宋銭のほかには、絹織物陶磁器などが盛んに輸入された。平氏の繁栄も宋との貿易によるところがすこぶる大きい。

[山口 修]

鎌倉時代

鎌倉時代に入ると、宋から禅宗が伝えられる。臨済禅と曹洞(そうとう)禅は相次いで伝えられ、武家社会ばかりでなく、朝廷の尊崇も受けた。鎌倉と京都には五山が開かれ、わが国の学問や思想のうえに大きな影響を及ぼす。禅宗と並んで、鎌倉時代には天台宗から分かれて浄土宗、浄土真宗、さらに時宗、法華(ほっけ)宗が唱道され、仏教の日本化が達成されるとともに広く民衆に普及されるに至った。中国では宋朝が北方民族の侵入に脅かされ12世紀には北部の領域を奪われて、首都を江南(杭州(こうしゅう))に移す。これ以後が、いわゆる南宋の時代である。しかも日本との経済的、文化的な交渉は前代と変わるところがなかった。

 13世紀になると、モンゴルの勢力が興隆し、中国を征服して元(げん)朝を開くに至る。元朝はついに南宋を滅ぼすが、その前後、2回にわたって日本に進攻してきた。すなわち元寇(げんこう)であり、わが国では文永(ぶんえい)の役(1274)および弘安(こうあん)の役(1281)と称する。日本史が始まって以来、最大の外寇であった。元軍は集団戦法によって、一騎打ちに慣れた鎌倉武士を悩ませた。また宋代に発明された火薬をもって「てっぽう」を使用し、さらに槍(やり)を活用した。ここに日本人は槍を知り、次の室町時代には槍を使用し、足軽による集団戦法を編み出すことになった。

[山口 修]

室町・桃山時代

鎌倉末期から室町時代にかけては、いわゆる倭寇(わこう)が朝鮮半島や中国の沿岸を襲い、しばしば暴力的行動に及んだ。モンゴル人を追って中国を回復した明(みん)朝も、その対策に苦しみ、室町幕府に対し倭寇の禁圧を要請している。室町幕府は、明朝から支給された勘合(かんごう)によって、公許の貿易船を発遣した。ここに展開されたのが勘合貿易であり、室町の将軍は明朝から「日本国王」に封ぜられて、いわば朝貢の形式をとったのであった。

 おりから日本では禅宗文化を基調として、伝統的な公家(くげ)文化と武家文化とが融合し、中国文明へのあこがれを秘めながら、日本独特の美意識を求める風潮が強まっていた。ここに展開されたのが東山(ひがしやま)文化であり、宋代に発達した茶礼(されい)も日本風に消化されて、やがて茶道として大成される。すでに明代には顧みられなかった茶礼が日本で発達したのである。日本の茶人がもっとも尊重したのが、宋代以来の伝統をもつ茶碗(ちゃわん)であり、中国の絵画や墨跡であった。

 ところが16世紀末、強力な統一政権が樹立された桃山時代に、日本は明国への遠征、そして征服を計画するに至る。個人の、夢のような野望であったとはいえ、戦国の武将たちは命令一下、まず朝鮮に攻め込んだ。いわゆる文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役であり、明や朝鮮では壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱とよんだ。明軍は朝鮮を救うために出動し、戦争は前後7年に及んだ。戦場となった朝鮮の被害は測り知れない。明朝もまた、打ち続く内外の争乱に疲れ果て、これより半世紀を待たずに滅亡する。

[山口 修]

江戸時代

満洲族の清(しん)朝が南下して中国を支配するようになると、明朝の遺臣は日本に対して救援を求めた。ときに17世紀なかばである。しかし江戸幕府は、鎖国を断行した直後であり、海外に進出する意思なく、出兵を断った。鎖国によって貿易は長崎一港に限られ、入国を許されたオランダ人は出島(でじま)に閉じ込められたが、中国人は長崎の郊外に居留地を与えられた。これが唐人屋敷であり、唐館(とうかん)ともよばれた。江戸時代を通じて、浙江(せっこう)、福建、広東(カントン)などの商人たちは、長崎に居留する者も多く、また盛んに往来した。

 17世紀後半には、禅宗の一派である黄檗(おうばく)宗が伝えられる。また、相次ぐ中国人の渡来によって、明代に普及した煎茶(せんちゃ)の飲み方も伝えられた。従来の茶道は抹茶(まっちゃ)の儀礼であり、これをたしなむ者も大名や富商に限られた。煎茶を知ることによって、喫茶の風はようやく一般の庶民にまで普及するに至る。

 江戸幕府は、その政策上、儒学とくに朱子学を重んじ、治世の基本とした。江戸をはじめ、大名領の各地に孔子廟(こうしびょう)(聖堂)や学校が建てられ、もっぱら朱子学を講じた。陽明学その他の学派を祖述する者も多く、儒学は江戸時代を通じて知識人の教養を形成した。こうした教学思想が明治時代の教育に引き継がれたわけである。

[山口 修]

明治時代

江戸時代に日中の交渉は盛んであったが、正式の国交が結ばれたわけではなかった。明治の世を迎えて、政府は清国との間に正式な外交関係の樹立を図り、1871年(明治4)には日清修好条規が結ばれた。これは日本として最初の対等条約であったが、当時の政府は欧米に対して不平等条約の改正を求める一方、清国や朝鮮に対しては、むしろ不平等条約を押し付ける方針をとっていた。1874年には、琉球(りゅうきゅう)の島民が台湾の原住民に殺害されたことを口実に、台湾出兵を断行する。ついで1875年上海(シャンハイ)までの航路を開き、76年には上海に日本郵便局を開設した。これは明らかに清国主権の侵害であった。

 同じ年、日本は朝鮮に迫って開国の条約を結び、着々と大陸進出を図っていった。古来、朝鮮は中国の王朝に対して属国の礼をとっていたが、これを日本は認めない。したがって、日本が朝鮮に進出すれば、ことごとに朝鮮の守旧派および清国と衝突した。1894年、朝鮮において日清両軍は交戦する。近代装備を固めた日本軍は旧式兵制の清軍を圧倒し、翌年4月には講和が結ばれた。日本は多額の賠償金のほか、台湾と遼東(りょうとう)半島を獲得したが、遼東半島は三国干渉によって返還させられた。敗戦によって清国はその弱体が明らかにされ、これより列強は争って清国に利権を求める。海岸の要地は列強の租借地となり、清国の財政は列強の進出によって崩壊の危機に立ち至った。

 日本国内では清国また中国人を軽侮する風習が生じた。中国に対する尊敬の感情がこのころから一変したのである。すでに欧化の風潮が日本の上下にみなぎっていた。しかし、日本が近代化を目ざして欧米の文化学術を取り入れるとき、これを日本語に訳するにあたって活用したのが漢語であった。和製の漢語が数多くつくりだされ、新しい日本語の内容が充実された。その一部は中国にも輸出され、中国語のなかに取り入れられている。

 20世紀に入り、日本はロシアと戦ったが、その戦場は中国の東北、すなわち清国領内であった。この戦争ののち、日本は遼東半島先端のロシア租借地を譲り受け、関東州として経営するほか、南満州鉄道を通じて東北への進出をもくろむに至った。

[山口 修]

大正・昭和前期

中華民国は1912年に発足し、すなわち元年はわが大正元年にあたる。その3年、1914年に第一次世界大戦が起こると、日本はドイツに宣戦し、その租借地であった青島(チンタオ)を攻略したのに続いて、山東半島一帯を制圧した。

 こうして翌1915年、日本は中国政府に対して二十一か条の要求(対華二十一か条要求)を提出する。主権を無視するほどの過大な要求に中国政府は抵抗したが、5月7日に至って最後通牒(つうちょう)が発せられるに及び、ついに受諾のやむなきに至った。5月7日および受諾の5月9日は国恥記念日として長く記憶された。

 日本の露骨な圧迫に中国の民衆は反撃した。1919年の五・四運動も、排日の気運が高揚した結果であった。世界の列強が日本をみる目も厳しくなった。1921~22年のワシントン会議では、中国に関する九か国条約が結ばれ、日本の進出を阻止しようと試みられた。しかし大陸に生命線を求めると称して、日本は陸軍を中心に侵略の計画を進めていた。東北の占領を目ざして起こされたのが1931年(昭和6)の満州事変である。翌年、戦火は上海に飛ぶとともに、日本軍の手によって偽「満州国」が建てられた。日本は国際的に孤立したが、侵略の企図はとどまるところがなかった。偽「満州国」は熱河(ねっか)地方も領域に加え、日本軍は長城を越えて華北に進出した。そして1937年、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに全面的な日中戦争が開始される。日中両国の歴史にとって、もっとも不幸な時期がここに始まった。しかし、10万の日本軍が中国本土に出動し、殺人と略奪をほしいままにして、その国土を荒らし、民衆を苦しめたにもかかわらず、最後は連合軍の攻勢と中国人民の反抗の前に敗退せねばならなかった。

[山口 修]

戦後

敗戦後の日本は連合軍の占領下に置かれたが、その間の1949年10月、中国の内戦は共産党の勝利に終わり、中華人民共和国が成立した。国民政府は大陸を追われて台湾に移った。

 日本が独立を回復したのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27)4月である。そのとき日本政府は、中国を代表する政権として、人民共和国でなく、台湾政権を選び、これと平和条約を締結した。ここにおいて、台湾との間には平和が回復したが、中国大陸においては戦争状態が続くという状況になった。その後、民間では経済面、文化面などでの交流が行われるようになったが、歴代内閣は中国を敵視する政策を改めず、20年を経過した。1972年アメリカ大統領が中国を訪問し、米中関係が正常化すると、ようやく日本政府も動いた。日中の国交が回復されたのは同年9月である。しかも平和条約調印までには双方の主張が食い違ったため、さらに6年の時日を要した。1978年8月に至って条約は調印され、こうして日中の長い不幸な時期に終止符が打たれたのであった。

[山口 修]

『井上秀雄訳注『東アジア民族史――正史東夷伝』全2巻(平凡社・東洋文庫)』『森克己・沼田次郎編『体系日本史叢書5 対外関係史』(1978・山川出版社)』

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