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遣隋使 けんずいし

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

遣隋使
けんずいし

推古天皇のとき,聖徳太子が中国の隋へ派遣した使節。第1回は『隋書』に推古8 (600) 年,倭王の使者,隋にいたるとみえるが,日本側の記録は見当らない。第2回 (『日本書紀』では第1回) は同 15年,小野妹子を大使として派遣。

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デジタル大辞泉の解説

けんずい‐し【遣×隋使】

大和朝廷に派遣した使節。推古天皇15年(607)と翌16年に小野妹子(おののいもこ)を派遣。同22年に犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を派遣。

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百科事典マイペディアの解説

遣隋使【けんずいし】

日本古代の朝廷がに派遣した使節。《日本書紀》では607年,608年の小野妹子(おののいもこ)ら,614年の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らで合計3回,《隋書》は他に600年の遣使を記す。
→関連項目聖徳太子留学

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世界大百科事典 第2版の解説

けんずいし【遣隋使】

大和朝廷と中国の王朝との公式な交渉は〈倭の五王〉時代からあった明証が中国の史籍に見いだされる。このころの交渉には多かれ少なかれ朝鮮半島における外交問題を伴っていたのであるが,562年任那(みまな)(加羅)が新羅のために滅ぼされ,日本は朝鮮半島における足がかりを失うこととなった。朝廷はこの回復につとめたが,国内事情も不安定で,目的を果たすことは容易ではなかった。一方,中国大陸においては,589年隋が南北朝を統一して強力な集権国家となり四隣にのぞむようになった。

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大辞林 第三版の解説

けんずいし【遣隋使】

聖徳太子が隋に派遣した大和朝廷の使節。前後三回(隋書に記録される600年を含めて四回・五回・六回説がある)行われた。607年の小野妹子の派遣が有名。隋滅亡後、遣唐使として継承された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

遣隋使
けんずいし

7世紀初頭、聖徳太子(しょうとくたいし)が摂政(せっしょう)のとき、日本から隋(581~618)に派遣された公式の使節。600年に始まり614年まで前後6回に及ぶ。ただし、600年(推古天皇8、隋の開皇20)と610年(推古天皇18、隋の大業6)の2回の使節派遣などは『日本書紀』にその記載がなく、それぞれ『隋書(ずいしょ)』東夷伝(とういでん)・煬帝紀(ようだいき)に記されており、遣使の史実性に疑義がもたれている例が多く、ほかに3回説、4回説、5回説がある。また、600年の遣使は「姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)」が使者を派遣したとあり、この人物をだれに比定するかについて従来より諸説がある。すなわち推古天皇(すいこてんのう)と舒明天皇(じょめいてんのう)(息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと))とを混同したとする説、小野妹子(おののいもこ)が孝昭天皇(こうしょうてんのう)の皇子天帯彦国押人命(あめのたらしひこくにおしひとのみこと)を出自とするということからそれと推古天皇との混同説、あるいは聖徳太子とする説などがある。しかし「タリシヒコ」は当時の天皇一般を表す語で、太子の事績などからやはり聖徳太子と解するのが妥当であろう。
 607年(推古天皇15、隋の大業3)の遣使には大礼(だいらい)小野妹子らが派遣され、このときは仏法を習得することを目的として沙門(しゃもん)数十人も同行したが、提出した天皇の国書に「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや云々」と、隋と対等の礼で書かれてあったために「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者有り、復(ま)たもって聞する勿(なか)れ」と煬帝を怒らせたという。翌608年、妹子は隋使文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)とともに帰国、同年再度使節として渡隋。このとき、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)らが留学生(りゅうがくしょう)、学問僧として同行した。彼らは二十数年間にわたり隋唐の制度・文物についての新知識の習得に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革等に貢献した。
 遣隋使は614年の犬上御田鍬(耜)(いぬがみのみたすき)らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていくことになる。[鈴木靖民]
『坂元義種著『遣隋使の基礎的考察』(『日本古代の国家と宗教 下』所収・1980・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の遣隋使の言及

【飛鳥時代】より


[時代概観]
 581年中国において隋による統一国家が実現し,東アジアの情勢が変化したのを契機に,日本の対外政策は転換し,倭の五王以来約1世紀の間中絶していた中国との国交が再開された。そして600年(推古8)を最初として小野妹子ら数次の遣隋使が派遣されるが,これは従来と異なり中国と対等の立場に立ってのものであった。隋に代わった唐に対しても,飛鳥時代全期を通じて前後7回の遣唐使が派遣され,とくに孝徳~天智朝が頻繁であった。…

【聖徳太子】より

…この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。 しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。…

【隋】より

…すなわち,官僚機構,軍制,税制等制度面の整備がいっそう進んで,皇帝を中心とする中央集権体制が完成の域にまでひき上げられ,大運河の開削を通しては,隋の当初から追求された政治・経済・文化の各方面での南北一体化がさらに促された。対外活動でも,文帝以来の方針を踏まえたうえで,吐谷渾を討って西方へ領土を広げ,同時に西域諸国との関係改善を図り,南は林邑(りんゆう)(ベトナム)や流求(台湾)に進出を果たしたのであり,しかも遠く倭(日本)からは聖徳太子の〈日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す,恙(つつが)無きや,云々〉で有名な国書を携えた遣隋使が派遣されてきた。ちなみに隋代における倭からの使者は,中国文献によれば文帝末時(600)が最初であり,後述にあるように,このときにもたらされたものが太子の政治改革に影響を与えたと考えられる。…

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